【第484号】令和3年4月

≪ 京都へ本社  立石電機 (現・オムロン) 立石一真 1900年‐1991年 ≫

大阪の大企業が次々に本社を東京へ移転するなか京都の上場企業は本社を京都に置きます。
理由の一つに三十を超える大学にあり、人口の10%を占める京都の学生は京都の財産です。

立石電機の創業者・立石一真は明治33年熊本伊万里焼盃の製造販売をする立石熊助の長男に誕生。
小学一年に父が亡くなると家業は貧困し新聞配達で家計を支えます。
小学校を首席で卒業する一真は、中学では数学と英語に集中し海外の技術書を原書で読破します。

大正10年熊本高等工業学校電気科卒業、兵庫県庁に電器技師として奉職しますが大正11年井上電機製作所に転職します。
この会社では米国で開発された「誘導形保護継電器」の国産化に取組ますが、昭和4年世界大恐慌で不況になると昭和5年同社を退社します。

自らの実用新案に基づく家庭用ズボン・プレッサーの製造販売をおこなう彩光社を京都に設立し自転車で訪問販売し
販路、取引条件、商品説明、広告など「マーケティング」を身につけます。
レントゲン装置を販売する友人から、X線撮影用に二十分の一秒で撮影できるタイマーに需要のあることを知ります。

一真はこれが電気関係の仕事に復帰できる機会であると考え社名を「立石医療電機製作所」に変更します。
昭和7年誘導形保護継電器と油入電流遮断器を組み合わせるレントゲン写真撮影用タイマーを開発、
大手レントゲンメーカーへタイマーのOEM供給し昭和8年大阪東野田に「立石電機製作所」を創業します。

昭和10年電気雑誌に「継電器の専門工場」の広告を載せると大口注文が入るようになります。
昭和11年西淀川区に二百坪の工場を建設、昭和16年東大航空研究所からマイクロスイッチ国産化の依頼が入ると
昭和18年国産初のマイクロスイッチの製品化に成功します。

昭和20年6月の大阪空襲で立石電機の大阪工場は焼失し京都市御室(おむろ)へ移転します。
戦後は女性用ヘアアイロン(商品名・オムロン)、卓上電気ライターを販売、昭和25年立石電機㈱を再建します。
技術革新こそが経済発展の道であるとマイクロスイッチリレー、温度スイッチ、圧力スイッチを開発し販路拡大に努めます。

新しい時代のマーケットを探り続けていた一真は、昭和28年渡米し米国のオートメーションの実情を見て、
「条件整備さえ先行させれば、企業は自ら成長する。」ことを学び自社の組織の改革を進めます。

昭和32年「接点の無いスイッチが出来ないか」「そうなれば寿命が一億回の高性能・長寿命の機能部品も夢でない。」
創業25周年の5月の式典で「五年以内に無接点スイッチを開発せよ」と指令します。
七人の若手研究員が開発を手掛け、昭和35年10月京都・長岡町に、資本金の4倍に当たる2億8千万円を投資する中央研究所を設立します。
この独自の研究開発システムは、若い技術者を育て新商品の急速な量的開発を可能としてオートメーション機能機器先発メーカーの地位を揺るぎないものとします。

自動販売機が街中で目立つ昭和38年一真の指示で、121種の食券販売が可能な自動券売機と紙幣両替機が開発されます。
この自動販売機に計算能力と識別能力を持たせたことが情報システム化への第一歩となります。

さらに無接点技術と食券販売機で開発したコンピュータ技術により、車両検知器や車の通行量によって信号機の時間をコントロールする電子交通信号機を開発します。

昭和38年米国視察で最大手の自動販売機会社から、クレジットカードによる自動販売機利用の要請を受け、
二年後にはクレジットカード並びにデポジットカードシステムの開発に成功します。

このカードシステムの技術基盤はCD(キャッシュディスペンサー)やATM(現金自動預金支払機)の開発からなります。
また食券販売機の技術は鉄道切符の販売機として注目されます。

昭和38年入社する三男・義雄は、昭和40年国鉄神戸駅に多機能式自動券売機を納入、同時に改札業務の自動改札装置を開発します。
昭和42年大阪万博駅となる千里丘陵の阪急電鉄千里駅に、世界初の多能式自動券売機、カード式定期券発売機、
自動改札を組み合わせる「無人駅システム」を実現します。

昭和47年シンガポールで海外初の工場を設立、電卓の生産販売を長男孝雄に任せると、孝雄は昭和48年米国に販売子会社を設立します。
昭和54年立石電機の売上が1千億円に達成すると立石一真は長男孝雄に社長を譲ります。

会長になる一真は昭和58年創業五十周年の年頭に「大企業の仲間入りした立石電機は大企業病にかかっている。
意識革命に徹し創業の精神に還り分権を徹底し、中小企業的な組織と簡素な制度で活性化を図ること。
これこそ五十周年にふさわしい大仕事であり全員でこれに挑戦してほしい。」と訓示します。

昭和62年(1987年)相談役になる一真は長男孝雄を会長に、次男信雄を副会長に三男義雄を社長に据えます。
昭和21年発売のヘア・パーマ・アイロンの商標にオムロンが誕生し、昭和33年(1958年)制御機器事業の本格的展開と輸出の拡大にともない
商標登録されたOMRONは1959年全世界の立石電機製品のブランドとなります。

立石一真の三男・義雄は、昭和14年大阪市生まれで昭和19年に京都に疎開します。
技術系の父や兄とは違い伝統芸能の能楽に魅せられ、能楽や花街に愛情を注ぐ文化系の一面を持ちます。

1987年(昭和62年)47歳で兄・孝雄社長からバトンを渡され三代目社長に就任します。
技術屋の父・兄とは違う文系の義雄は、父から≪市場の側から技術を見ろ≫といわれ「顧客から学ぶ」を大切にします。
社長になり取組むのが「大企業病の克服」です。町工場が従業員一万四千人に膨らみ、
連結売上2800億円に達しますが創業時のチャレンジ精神が失われているように見えます。

「会社は創業家の物でない」と思う三代目義雄社長は、創業者一真が存命中の1990年1月御室にちなむOMRONから社名を「オムロン」に変更、
立石家の名を外しますが一真の望むことでした。

社内カンパニー制の導入に取組み積極的な海外進出により、社長就任前から退任時の十六年間で海外売り上げを4倍、国内外での合計売上を1.9倍へ引き上げ、
海外展開を加速し世界的企業に育て上げます。

2003年創業家以外の作田久男に社長を譲り会長に退き、その後オムロンは健康医療機器(体温計、血圧計、電動歯ブラシ)などの分野へ進出、
義雄は京都商工会議所の会頭を務め産業育成や文化振興に尽力します。

戦後生まれの京都企業には、1959年に鹿児島出身の稲盛和夫(1932年生まれ)が創業するセラミック製品の「京セラ」と1973年に京都出身の永守重信(1944年生まれ)の創業する精密小型電動EVモーターの「日本電産」があり、今や「世界企業」となります。