【第483号】令和3年3月

稲盛和夫(1932年鹿児島生まれ)は1955年鹿児島大学工学部有機化学を専攻、恩師の紹介で京都の送電線碍子製造会社松風工業に入社します。給料が遅配する破産寸前の会社で、フオルステライト・高周波絶縁材料の合成に成功しTV用絶縁材料の製品化を受注します。

製品化にはクレームが続発し開発者の稲盛は担当から外されます。1959年稲盛和夫(27歳)は八人の従業員と共に退社し資本金3百万で京都セラミックを設立します。

≪ 今月号は 1990.2の稲盛和夫の盛和塾神戸塾長例会から抜粋しました。≫

会社を創業して二年目あたりから経営は難しいと思うようになりました。経営が何たるかを知らなく、経営者とはどんな人なのか悩みました。そんな折に神戸有馬温泉で有名な経営者の話を聞く「セミナー」の案内が届きます。数万円の「セミナー」に本田宗一郎【本田宗一郎は稲盛が会社を設立する前年の1958年に英国マン島TTレースに初出場し125ccクラスで団体優勝します。】が講師に名を連ねておりました。設立時に京都セラミックに資金援助をし、役員もされていた宮本電機の専務・西枝一江さんに相談しました。

西枝さんは旧制新潟高校から京都大学を卒業された方で、欲という物をもたない大変な人格者で多分に仏教思想を持っておられ、私はしばしば西枝さんに愚痴を聞いて戴き薫陶を受けておりました。西枝さんに二輪車屋の親父みたいな人が素晴らしい成功をしている。本田宗一郎セミナーで是非お会いしてお話を伺ってみたい、そうすれば経営のなんたるかが判るのではと、参加費用を出してほしいと申し出ました。西枝さんには捨て金になるからと断られました。この当時考えていたのは経営がうまい人というのは、人種が違うまったく別世界の人なのではないかということでした。一介の田舎大学を出た私がそんな難しい経営が出来るのだろうか、と単純に疑問をもっていました。まず有名と言われる経営者にはどんな人がいるのか、またどういうタイプの人なら経営がうまくいくのか知りたいと思っていました。

西枝さんには断られましたが本田宗一郎という男に会ってみたいと食い下がり、たいした勉強にはならないよと言いながら参加費をだして頂きました。 会場の大広間の中央に講師の演壇がありその周りに小さな机があります。本田さんが登場されるやいなや、我々をこっぴどく叱りました。「皆さんは何をしているのか、温泉に入って浴衣を着て、そして経営を学ぼうとは、あまりにも悠長です。私は経営を学ぶためにこんなことをしたことはありません。そんなお金を使っている暇があるなら、早く会社へ帰って自分の仕事を一生懸命しなさい。そのほうが経営の勉強になります。」とおっしゃるのです。要するに貴方達は馬鹿じゃないかと本田さんに言われ、その強烈なパンチに私は茫然としてしまいました。それから小一時間本田さんの話を聴き、この時言われたのは「欲と二人連れ」で仕事をやるべきだということでした。私は日ごろ西枝さんから「人間として如何にあるべきか」が大切だ、つまり仕事の本質は「欲」ではないと教えられておりました。本田さんは「欲と二人連れ」で働けとおっしゃるのです。本田さんの言う「欲と二人連れ」は本当に正しいのか、少し疑問に思いました。

私には欲と二人連れでダイナミックに経営すると大変上手くいくように見えるが、それは一時的なものでしかなく、どこかで立ちいかなくなるのではと思っておりました。

後日にハッと目覚める出来事がありました。創業以来京都銀行が当社の主力銀行だったのですが、ある都市銀行から取引したいというアプローチがありました。風評では銀行は余裕が有る時はお金を貸すが、いざという時は貸してくれないと聞いていたので簡単に取引するのもどうだろうと考え少し警戒していました。取引を始めるにあたり銀行のトップの哲学が重要だと考え、今となれば生意気にも頭取に御目にかかりたいと申し出て本店でお会いしました。頭取は開口一番「稲盛さん今日は私が貴方に面接を受けるのですね」と皮肉をいわれました。私はお取引を始める前にトップの哲学が知りたいのですと切り出すと、頭取に「あなたはどういう哲学をお持ちですか」と切り返されます。日ごろ西枝さんから教わった「人間性こそ最も大事だ」という話をしました。 頭取は「貴方は老人みたいなことを言うのですね、まだ三十代前半と若いのだからそんなことを言ってはいけません、若い頃はもっと泥臭く、あの松下幸之助さんももっとギラギラと脂ぎった人でしたよ。」 といわれました。

私は松下幸之助さんに心酔しており「PHP」という冊子を創業時からわが社の全社員に配り「松下哲学」を勉強してきました。人格者で知られる松下幸之助も若い頃はやんちゃだった、

年を重ねて人間性が円熟されて松下電器も大企業に成長しました。ギラギラ脂ぎったままなら中堅の家電屋で終わっていたでしょうし、本田宗一郎のホンダも二輪車まででしよう。

有馬温泉のセミナーから約二十年後再び本田さんにお逢いしました。1984年私がスウェーデンの王位科学アカデミーの会員に推薦され就任したときのことです。本田さんやソニーの井深大さん、日本で十人くらいの会員がおられました。本田さんとはボルボやアセアなどをご一緒し本田さんの講演を聴き素晴らしい人間性に圧倒されました。本田さんも若い頃の「欲と二人連れ」が年を重ねるにつれ「人間のあるべき姿」という物を理解され人間性がどんどん円熟していかれた。その人間性の高まりが二輪車から軽四輪、普通自動車へと続いていく世界のホンダの躍進と一致しているのです。

私は西枝さんから教わり自分自身も考えてきたことは間違えではなかった、と思うのです。若くしてそういうことを理解し、実践すべく努力していけば本田さんや松下さんに負けない成長発展の道を歩めるはずだという確信をもってこの道を歩いてきた訳です。

 

松下幸之助の「PHP」は終戦後1946年PHP研究所を設立し倫理教育に乗出します。

PHPは繁栄によって平和と幸福の英語Peace and Happiness through Prosperity からなり1948年2月より毎月一回の講和集が社員へ配布されます。

「盛和塾」稲盛和夫51歳の1983年、経営哲学を学びたいという自主的な勉強会・盛友塾は1984年通信事業の自由化に際して1984年京セラの出資による第二電電・DDIを設立します。

盛友塾は1989年盛和塾に変更し全国各地に広がり、日本で56塾 海外に44塾が開設されます。2010年日本航空が破綻すると、会長に就任し日本航空で「JALフイロソフイ」論で積極的な意識改革に取り組み三年足らずで再上場させます。