【第485号】令和3年5月

 ≪  ロッテ創業 重光武雄 1922年‐2020年  ≫

日露戦争に勝利し明治38年9月ポーツマス条約が締結する二カ月後、第二次日韓協約の締結により当時の大韓帝国は日本の保護国となります。
この時設けられた韓国統監府の初代統監・伊藤博文は学校建設を最優先課題とし、普通学校教育は当時の朝鮮人の識字率の大幅向上や社会の近代化に貢献します。
明治43年韓国併合に関する条約により五百年続いた李氏朝鮮は終焉を迎え、日本は朝鮮の植民地支配を進めます。

韓国名・辛 格浩(シン・キョッコ)-日本名・重光武雄は大正11年釜山からソウルへの在来線で1時間ほどの蔚山(ウルサン)で生まれ、伯父の支援で学校へ通い日本語を学びます。
昭和16年18歳の重光は警察署長に日本で勉強したいと直談判し推薦状を貰います。

東京の高円寺の友人宅に同居し牛乳配達で働き、昭和16年早稲田実業学校・夜間部に編入します。
この年の12月日本は太平洋戦争に突入します。

昭和18年重光は早稲田実業を卒業し早稲田高等工業学校応用化学科(夜間3年制)に入学、昭和19年軍用機製作工場で旋盤の研磨オイルの開発に従事します。
昭和19年重光に日本の資産家から、旋盤の切削用油を作る工場への出資の声が掛かり、ひまし油を原料に旋盤の冷却用油の生産を始めます。
昭和20年夏の大空襲で工場は丸焼けとなり8月15日太平洋戦争は終わります。

朝鮮人・台湾人は祖国解放の日となり二百万人の在日朝鮮人は祖国への帰途を急ぎ、昭和20年、昭和21年で176万人が帰国しますが重光は日本の出資者への返済を優先し帰国しません。
昭和21年3月早稲田を卒業する重光は、荻久保へ拠点を構え闇市の時代にひまし油を使い石鹸の製造と靴墨の製造、さらに化粧品の製造販売で莫大な利益を手にします。
戦前からの老舗・資生堂が本格的に製品を販売するのを目にして闇製品の販売から撤退し、進駐軍の兵士が子供達にガムを配るのをみて風船ガムの製造販売を始めます。

昭和23年6月会社の法人化を目指す重光は愛読書「若きウェルテルの悩み」のヒロイン・シャルロッテから社名を「ロッテ」とします。
甘いものに飢えていた人々はガムに飛びつきガムメーカーは400社ほどに膨れあがります。
昭和23年食品衛生法が公布されると不良業者は駆逐されロッテの収益は更に高まります。

昭和23年8月大韓民国、9月朝鮮民主主義人民共和国が建国を宣言し、北緯38度線で暫定分割する米ソの合意に基づき朝鮮半島南部は米軍政下におかれます。
昭和25年朝鮮戦争が勃発、昭和28年休戦協定が結ばれますが太平洋戦争では無傷であった国土は瓦礫の山となり韓国は世界最貧国に国力を落とします。

朝鮮戦争特需で日本国では特需をもたらし、ガムメーカーの「ハリス」は森永の流通網に乗り急成長し「ロッテ」と競合します。
ハリスは昭和22年にGHQによる財閥解体の鐘淵紡績の工場跡地を借りてチョコレートを発売、
昭和26年に合成繊維から板ガム・ハリスチュウイングガムを発売し全国一のシェアを取ります。

昭和27年砂糖の統制が解除されるとロッテは砂糖入りのカーボウイガムを発売し100億円の大ヒット商品となり、続いて発売する葉緑素入り「グリーンガム」は現在も発売される超ロングセラーとなります。

業界一位のハリスは合成樹脂/GPチクルをガムベースとしますが、ロッテは南米原産の天燃樹脂(チクル)使用の板ガム・クールミントガムを昭和35年に発売します。
天燃チクル・ガムでハリスを追い抜き業界一位となりハリスは鐘淵紡績に吸収されます。

重光の次の目標はチョコレート市場への進出ですが、明治と森永は原乳を全て押さえております。
重光は全脂粉乳とカカオを混ぜ込んだ「カカオプレパレーション」を輸入することで、原乳よりコスト安になることを知ります。
昭和37年スイス生まれのM・ブラックを招聘して「ロッテガーナミルクチョコレート」が完成し昭和39年「鮮やかな赤」の包装で発売します。
ロッテ第三の柱はキャンディーで食べるキャンディーです。
欧州からJ・ボーダンを招聘し昭和44年ソフトキャンディー「ココロール」を発売します。

次はアイスクリーム市場への進出ですが大手7社が64%の市場を占有しております。
暑い夏にチョコレートが弱いので、夏に全消費量の84%が集中する季節商品に挑戦します。
チョコレートの本場はイタリアですが高級アイスほど乳脂肪が多く食後水が飲みたくなります。

重光は後味が爽やかな植物性脂肪を使う太陽のデザート「イタリアーノ」を昭和47年発売します。

第五の柱はビスケットです。
本場スコットランドからライアン・ハンターを招聘し昭和51年「マザー」を発売し、昭和59年日本の製菓業界で一位となります。

昭和37年在日韓国商工会議所顧問として、日本に帰化していない重光は21年振りに祖国の土を踏みます。
昭和40年佐藤栄作総理大臣と朴正煕大統領との日韓国交正常化で日本から3億㌦の支援金を得て韓国は製鉄所、ダム、発電所など社会インフラの基板を整えます。
朴大統領の下で急成長する三星(サムスン)や現代(ヒヨンデ)をみて、韓国籍・辛格浩は重光武雄の日本企業のロッテで稼いだお金を韓国に投資します。

昭和41年民団中央本部の顧問となる重光は朴大統領と直接話のできる関係となり韓国政界での知名度も上がります。
昭和42年ソウル市内に韓国ロッテ製菓設立、重光は日本と韓国を行き来し1年の半分は日本で残る半分を韓国で過ごす生活となります。

日本は昭和40年からの「いざなぎ景気」で高度成長し、国民総生産・GNPは昭和41年仏国を、昭和42年英国を、昭和43年西独を抜き米国に次ぐ世界二位となります。

韓国も朴大統領が昭和38年就任し昭和54年暗殺されるまでの「漢江の奇跡」と呼ばれる高度成長期に、GNPは昭和36年81㌦/人、昭和54年1600㌦/人、昭和62年、3200㌦/人となります。

重光は昭和49年韓国七星飲料を設立、昭和53年韓国ロッテグループ総合管理の運営本部発足しロッテ建設買収します。
昭和54年湖南石油化学へ出資しロッテホテル、ロッテ百貨店を開業します。
昭和56年に昭和63年(1988年)のソウル五輪開催が決まると、集客の為のテーマパーク・ロッテワールド(ホテル、デパート、ショッピングモール)を企画し開幕直前にロッテホテルを開館します。
平成元年ロッテワールド・アドベンチャー開業、平成6年コリアセブン買収、平成9年釜山ロッテワールド開業します。

平成19年ロッテホールディングスの会長に就任します。
2015年(平成27)日本ロッテ企業売上高3145億円、韓国企業売上高6兆4798億円(日本の20倍)となり韓国五大財閥となります。

ダイヤモンド社 「ロッテを創った男」より転載させて頂きました。