【第477号】令和2年9月

≪ 青 函 連 絡 船 ≫

津軽海峡を渡る定期航路は明治6年青森‐函館間の青函航路と、大湊‐函館間航路が北海道開拓使によって開設されます。
西南戦争の終わる明治12年、既に東京‐函館間航路に参入する郵船汽船三菱会社が北海道開拓使から青函航路を引継ぎます。
この頃には郵船汽船三菱会社が日本沿岸の海運界を独占し運賃は高騰します。
これに対抗する共同運輸会社が明治15年に設立されて青函航路に参入すると両社は採算度外視の過当競争に陥ります。

政府は共倒れを危惧し明治18年両社を合併させて日本郵船会社を設立し、青函航路を継承させて毎日1往復の定期航路を就航します。
明治24年になると鉄道網は上野―青森間が開通、明治25年には北海道炭礦鉄道によって岩見沢―室蘭間が開通します。
明治26年日本郵船は青函連絡船航路の延長に函館‐室蘭間を就航し、上野‐(鉄道)‐青森‐(船)‐函館‐(船)‐室蘭‐(鉄道)‐札幌の、鉄道連絡船航路を開通します。

明治37年北海道鉄道社が函館‐小樽間を全開通すると、明治38年日本鉄道社は「上野‐青森‐函館‐札幌」を接続する青函航路用「高速タービン船2隻」を英国へ発注します。

明治39年3月鉄道国有法が公布、11月日本鉄道は国有化されますが英国との造船契約は引継がれます。
明治41年3月と4月に比羅夫丸、田村丸が青函連絡船に就航すると、青函航路は日本郵船の6時間から日本鉄道の高速タービン青函連絡船は4時間に短縮されます。

浅野総一郎の東洋汽船も明治38年1万㌧クラスの、蒸気タービン貨客船を英国に発注しますが、竣工が明治41年5月となり「日本初」の蒸気タービン船は比羅夫丸に譲ります。

蒸気タービン機関とは燃料の石炭や重油により水を沸騰させ、高温高圧の水蒸気を動力に変換するものです。
蒸気タービン機関は明治17年英国パーソンスが発明し明治34年商用船として英国で実用化されます。
高温高圧の蒸気を羽根車・タービンに吹き付けて回転力を得るので効率が格段に上がります。
レシプロ機関でのシリンダやピストンは不要となり、小型化されて船底に装置されるので騒音・振動も少なく客船には大変好ましい機関でした。

速力18ノットで函館‐青森間を6時間から4時間へ短縮しますが、比羅夫丸、田村丸の就航当初は青森港・函館港共に連絡船の接岸できる岸壁はありません。
沖合五‐六百㍍地点に錨泊し荷役と乗下船をするので青森‐函館間が4時間といえハシケ連絡時間を要します。

しかし日本郵船の青森‐函館6時間より速く、運賃も1割ほど安く、明治43年競合相手の日本郵船は青函航路から撤退します。
青函航路の貨物量の増加は著しく、明治43年日本郵船撤退時の7万2千㌧/年から4年後の大正3年には15万5千㌧/年へ倍増します。
明治44年には比羅夫丸、田村丸に傭船を加え三船体制とし、明治45年には四船体制とします。

第一次世界大戦が始まる大正3年以降青函連絡船の貨客輸送量は更に増加しますが、船舶は海外輸送へ回り国内貨物は船輸送から貨物鉄道へ移ります。
大正6年には貨物輸送量が増大しハシケ(艀)での沖荷役では大量の貨物が滞貨します。
抜本的な解決策は、貨物を積載した貨車を陸上軌道からそのまま船内軌道へ積載する「車両航送」でした。

明治44年に関門航路の下関‐小森江間で民間企業による日本初の貨車航送が始まります。
大正2年鉄道院はこれを買収し直営化し、大正8年車両甲板に軌道一本を敷設し船首・船尾どちらでも積載できる、自航式貨車航送船が就航します。
この実績が良好であったことで鉄道院は、青函連絡船の車載客船による車両航送案を採用します。

日本初・車両航送の翔鳳丸、飛鸞丸、津軽丸、松前丸が大正11年起工し、大正13年翔鳳丸ら四隻が青函連絡船に就航すると、初代連絡船比羅夫丸、田村丸は引退します。

翔鳳丸ほか三隻は3,500㌧級の大船で乗客定員も895人と比羅夫丸の二倍以上、船底の線路三本に貨車25両を積込みます。
この四隻で各船1日1.5往復しますが輸送能力は足らず、大正15年に貨物専用船・第一青函丸(ワム型貨車44台積載)を新造します。
青森側は大正12年に連絡船岸壁が出来、函館側は大正14年7月竣工します。
「貨車航送船」を接岸させる木造「桟橋」はコンクリート製となり「岸壁」と呼ばれます。

車両航送開始以前の北海道発は鮮塩魚、タマネギ、馬鈴薯等で、本州から北海道向けは味噌、醤油、野菜、果物、陶器などでした。
積替えが多い青函連絡船経由は嫌われて貨物船舶で輸送されておりました。
大正14年の車両航送開始後は、天候に左右されるハシケ荷役の積替えが無く鮮魚輸送に広く使われ道内産鮮魚の市場規模を急拡大します。
また貨物船輸送に比べ簡易梱包で痛みも少なく、タマネギなど農産物や食品雑貨なども鉄道輸送へ代わる流通革命が起ります。

昭和16年12月太平洋戦争開戦となると国内の商船は殆ど軍に徴用され、国内の貨物輸送は一気に鉄道に移ります。
青函連絡船に小樽や室蘭から貨物船で輸送されていた石炭輸送も加わる戦時輸送が始まります。
太平洋戦争末期の昭和20年7月翔鳳丸、飛鸞丸、津軽丸、松前丸ら四隻は米軍の空襲に遭い撃沈し12隻全船が稼働不能になります。
急遽海軍から寄集める船舶を就航し、空襲で損傷した車両渡船を復帰させて青函航路は存続させます。

戦後の青函連絡船の陣容は車両渡船2隻、貨客船2隻、貨物船1隻の5隻で1日10往復運航します。
樺太・満州からの復員者、ヤミ商売者などで混雑し輸送力不足が続きます。

本州と北海道を結ぶ唯一の青函航路に、昭和22年GHQの許可を受けて新造客載車両渡船・四船「洞爺丸」「羊蹄丸」「摩周丸」「大雪丸」と同時に
車両渡船・四船「北見丸」「日高丸」「十勝丸」「渡島丸」が就航します。
昭和29年9月26日台風15号により函館港内の連絡船五隻(洞爺丸、第一青函丸、北見丸、日高丸、十勝丸)が沈没する海難事故は、死者・行方不明者1155人に及ぶ日本海難史上最大の惨事となります。
昭和39年洞爺丸事故を契機に最新型津軽丸と姉妹船6隻、新造貨物船6隻が就航します。

昭和40年代になると本州‐北海道間に長距離フェリーが登場し、国鉄貨物は昭和46年をピークに減少します。
昭和36年千歳―羽田間に日航が国内初のジェット機を就航します。
旅客は上野‐札幌間特急列車24時間の国鉄から、2時間の飛行機へ移り国鉄旅客も昭和48年をピークに減少します。
昭和36年着工となる青函トンネルが昭和63年3月13日開通と同時に、青函連絡船の役目も終わり80年の歴史に幕を閉じます。

青函連絡船・摩周丸は当時のまま、実際の乗り場であった旧函館第二岸壁に記念館として公開しており、八甲田丸は青森港に公開されます。