【第478号】令和2年10月

≪  JFK  ジョン・フィツジェラルド・ケネディ 1917年-1963年  ≫

中国の漢字文化圏で二千年の歴史を持ち清国の属領であったインドシナ・Indochineを植民地化する為、
仏国は1884年の清仏戦争で清国を撤退させ1887年仏国の支配下に置きます。
日本は太平洋戦争中の1941年、石油資源確保のため仏領インドシナへ進駐しております。

1945年8月15日日本がポツダム宣言を受諾、9月2日ミズーリ号で降伏文書に調印して第二次世界大戦は終わります。
ソ連共産軍は北方四島と樺太へ侵攻し日本人を排除します。

日本の支配から解放される9月2日ホー・チ・ミン(胡志明)は、北部のハノイでベトナム民主共和国樹立を宣言し、
初代国家主席に就任します。
米国CIA【中央情報局・闇の政府?】は沖縄基地にあった兵士50万人分の日本本土決戦用・武器弾薬の半分を李承晩の
朝鮮半島へ、半分をホー・チ・ミンのインドシナ・ハイホン港へ密かに輸送します。
仏政府は1945年9月23日南部にコーチシナ共和国を樹立して、ベトナムからからの分離を画策します。

中国の支援により1950年7月に始まる朝鮮戦争が1953年に休戦となると、冷戦の戦場はインドシナへ移ります。
すでに英国はインド・ビルマから、蘭国は東インドから撤退しますが、仏国はインドシナから撤退しません。
米軍からの武器弾薬で武装するベトミン(ベトナム独立同盟会)は、激しいゲリラ戦で仏軍を追い詰めて、
ベトナム北部を支配下に治めます。

1954年7月ディエンビエンフーで仏軍が陥落、ジュネーブ休戦協定でベトナムは北緯17度線で南北に分断されます。
米国アイゼンハワー大統領は「南ベトナムと東南アジアを共産主義の手に渡さない」と、
ベトナム国王バオ・ダイを退位させます。

反仏革命で米国亡命していたゴ・ディン・ジェムを1955年南ベトナム共和国初代大統領に就任させて
「ベトナム戦争」は始まります。
ジェム政権のベトミン狩りが激しくなると、南ベトナムのベトコン(北ベトナムによる南ベトナム解放民族戦線)が
米国と敵対します。
1960年CIAが戦争を計画し実行する準軍事組織となり、CIAのサイゴン軍事使節団が活動し始めます。
北に留まるカソリック教徒へは共産主義者に虐殺される、とデマを流すと百十万人のカソリック教徒は
難民となり南へ移動します。
南ベトナム在住の農民・住民と、北ベトナムからの脱出難民の間に激しい争奪が起り無政府状態に陥ります。

ここから米国のインドシナ関与が始まり、陸軍・海軍・空軍・海兵隊・沿岸警備隊がインドシナへ上陸します。
南ベトナム全土に暴動が拡大すると、ジュネーブ協定に違反してCIAは米軍兵輸送用にヘリコプターを導入します。
やがてこのヘリコプターに自動小銃を武装して村から村へ無差別銃撃を繰返し、ベトナム戦争は拡大していきます。

1960年の大統領選挙で民主党候補に指名を受けた43歳のケネディは、予備選挙でカトリック教であることが論点となります。
集まったプロテスタントの牧師の前で、
「私はカトリック教の大統領候補ではありません。民主党の大統領候補で信仰と政治は無関係です」と訴えます。
1960年9月ケネディとR(リチヤード)・ニクソンのTV討論会ではTV用メーキャップで登場し、
生き生きした姿と弁論の巧みさに視聴者はケネディが勝ったと確信します。

1960年10月公民権運動家で黒人のキング牧師がデモ行動で逮捕されます。
ケネディは有罪判決を言い渡した判事を電話で説得、翌日キング牧師は釈放されます。
黒人の多くはプロテスタント信者で、共和党アイゼンハワー大統領の副大統領Rニクソン候補を支持していましたが、
この一件で黒人層の多くがカトリック信者のケネディ支持となります。
1960年11月の大統領選挙では僅差ながらJ・F・ケネディが35代大統領に当選します。

選挙後には1920年代の禁酒法時代に密造酒の生産・販売でマフィアとの密接な関係があった父・ジョセフによる買収や、
大規模な選挙違反が行われたと噂されます。
ケネディ家とマフィアの関係は後のダラス暗殺事件の原因の一つとしてささやかれます。

1959年1月カストロやゲバラがハバナを占領するキューバ革命は、米国大統領選挙での争点でした。
大統領となるJFケネディはキューバ介入を支持し、キューバ国内反政府勢力への援助を表明します。
1961年CIAは在米亡命キューバ部隊を支援、カストロ革命政権を打倒するキューバ侵攻のピックス湾事件では大失敗します。
キューバのゲリラ指導者・ゲバラは米国との関係回復は困難とみてソ連へ接近、
1961年社会主義宣言をしてキューバ革命を社会主義革命に位置付けます。

1962年10月キューバでソ連の核ミサイルが建設されると、米国はカリブ海でキューバ海上封鎖を実施し、
米・ソの緊張は核戦争寸前までに高まります。
ソ連・フルシチョフとJFケネディとの会談で、ソ連はキューバから撤退し米国もキューバに介入しないと約束します。
ピックス湾事件の大失態でJFケネディはCIA解体を公言、CIAはダラスでのJFケネディ暗殺事件の有力な黒幕説となります。
1961年ベトナム戦争が拡大すると、自動小銃で武装されたヘリコプターが低空からナパーム弾で無差別銃撃を始めます。
村民・ゲリラも基地近くの草むらからヘレコプターへ矢を放ち回転翼に絡ませ墜落させます。
五千機のヘリコプターが破壊され1万5千人の兵士が犠牲となります。

1964年11月の大統領再選へ向け1963年JFケネディは、
「インドシナのベトナム戦争もベトナムの将来もベトナム人に任せる。1963年クリスマスまでに千人の米兵を帰国させ
1965年末までには米兵全員をベトナムから撤退する」と表明します。

ソ連が1961年にガガーリンの宇宙飛行に成功すると、宇宙開発で競う米国人工衛星が1963年5月地球を23周します。
坂本九の日本盤「上を向いて歩こう」が米国盤「スキヤキ」で販売され、
全米でミリオンセラーとなるのが1963年6月のころでした。

1963年11月22日12時30分、遊説中の南部テキサス州ダラスでJFケネディは銃撃されます。

午後2時テキサス劇場でカストロ信者・オズワルドが逮捕され、ダラス警察は午後11時27分大統領殺害で告訴します。
24歳のオズワルドは「私が容疑者とは知らなかった。」と否認しますが、
2日後ダラス警察署でナイトクラブオーナーに銃殺されます。
多くの謎を残した事件にはCIA【闇の政府?】による陰謀説があり今なお論議の的となっております。

1963年11月22日副統領の民主党R(リンドン)ジョンソンが次期大統領に自動就任、
ケネディの残る任期1965年1月20まで36代大統領を勤めます。

JFケネディ大統領により発せられた1965年末までの全米軍の帰還は、
次期民主党大統領Rジョンソンによって180度転換され大規模なベトナム介入で戦争は泥沼化していきます。