【第476号】令和2年8月

≪ コンテナ船 ≫

外航航路船にはコンテナ船(日用品・家電など)、LNG船(液化天然ガス)、バラ積み船(梱包なし)、ドライバルク船(穀物鉱石・セメント)、タンカー船(化学品の液体)、
油槽船、自動車専用船(完成車)など様々な貨物船があります。

コンテナ船の貨物採扱数はTEU(Twenty Feet Equivalent Unit)、長さ20フイート、幅8フィートのコンテナ1個を1・TEU で表します。
コンテナ船はあらかじめ公表された運賃と航路スケジュールに従って特定航路を就航し、それ以外の船舶は不定期船とよばれ特定航路を就航します。

1956年4月NY市街より13㎞西のニューアーク港からテキサス南部まで、58個のアルミ箱が積み込まれ、五日後58台のトラックに積替えて目的地へ向うのがコンテナ輸送の始まりです。
米国の物流は蒸気船に始まり1807年にはNYを中心に沿岸定期航路が就航しますが、最もコストの掛かるのは港湾労働者による船への積降し作業でした。

1935年22歳のM・マクリーンがトラック2台とトレーラ1台で運送会社を起業すると、第二次世界大戦と戦後の好景気により1954年にはトラック輸送会社で全米最大級の会社に成長します。
M・マクリーンはトラックを港で切り離し、トレーラだけを船に積込む方式を考えますがトレーラの車体部分も無駄であると、ボディ「アルミ箱」だけを積む方式に辿りつきます。
揚げ積みには船に備付けクレーンではなく、埠頭側に大型クレーンを設置し1956年4月を迎えます。
コンテナ箱の積み込みコストとバラ積みコストを比較すると、5.83㌦/㌧は15.8㌣/㌧差となりコンテナ輸送の未来を確信します。
しかし当時の貨物船は第二次大戦で徴用された払い下げ船であり、貨物はコンテナと一般雑貨を混載しておりました。

コンテナ時代に先駆けてコンテナ寸法の規格が、鉄道貨物、トラック運送事業者間で紛糾します。
当時世界37カ国が加盟していた国際標準化機構/ISOは、1964年に幅8フィート、高8フィート、長10、20,30,40フィートをISO規格として認めますがコンテナの最大重量の規定はありません。

米政府は1965年ベトナムへ緊急増派を開始すると弾薬、食糧の物資輸送の混乱が生じます。当時の南ベトナムには水深の十分な港は一カ所しかなく、鉄道は一本、舗装されない道路も分断され物流はほとんど機能せず、六万人を超える兵士への兵站は寸断されます。

1966年M・マクリーンはコンテナを利用すれば兵站問題は解決すると訴え、サイゴン港でのトラック輸送を請負います。
手始めに沖縄からコンテナ輸送を開始すると、米国本土から直接ベトナムへコンテナ輸送が依頼されます。
1967年M・マクリーンは船七隻で総額7000万㌦の輸送契約を結びます。1969年には54万人の兵士が駐留し、武器の輸送にはコンテナが最適であるとします。
M・マクリーンは米本土からベトナムへの輸送費は往復分を貰うので全て利益となる帰り荷を探します。

1960年代の日本は工業生産高が四倍に増え、米国にとって第二位の貿易相手国になります。
日本政府は繊維、衣料品、トランジスタラジオ、ステレオなどのコンテナ輸送に取組ます。

M・マクリーンは日本の市場に眼をつけ1967年9月合弁先の日本郵船が日本初の米国向けフルコンテナ船が就航します。
ベトナムからの帰り船を横浜と神戸に寄港させると日本発の太平洋は年年増大し、翌1969年にはノウハウを得た日本郵船が独自にカルフォルニア向けコンテナ輸送を開始します。
コンテナのメリットを最初に実感したのはエレクトロニクス・メーカーでした。電子製品は壊れやすく、盗難の恐れがありながらコンテナサイズにぴったりでした。
コンテナ輸送は運賃を下げ、破損・盗難の保険料を下げ、在庫も圧縮されて日本製品は米国市場、欧州市場を制覇します。

1969年米・ユナイテッド海運は米国‐日本航路に八隻の高速コンテナ船就航を発表します。

日本政府は経済発展戦略の中心を海運に据え新規五カ年計画を発表し、商船の数を50%増す目標を掲げます。日本で建造するコンテナ輸送サービスに4億4千万㌦の補助財源を確保します。
船社は新造船の5%の自己資金でよく、他は政府系銀行が融資します。1970年末までに158隻を日本の造船メーカーに発注します。
日本以外では1969年に香港へフルコンテナ船が入港し、翌年から韓国、台湾、フイリピンへフルコンテナ船を投入すると、たちまち太平洋航路には73隻・輸送能力は25万TEUに達し、
コスト競争にかなわない在来船は瞬く間に姿を消します。コンテナ大型船の輸送能力は1967年から1974年の六年間で14倍に拡大すると供給過剰はダンピング競争となり、大手船社は業界再編に入ります。

1973年の第四次中東戦争で原油価格が急騰すると、海運各社は燃料高騰を理由に運賃にサーチャージ加算し経営は持ち直します。
1975年に入ると輸送コスト1/4の燃費は1/2となり高速コンテナ船は燃費で採算は悪化し高速船は撤退していきますが、国際定期航路の運賃はカルテル「海運同盟」により新規参入を拒み運賃は協定しており、
規模を求めてコンテナは20フィートから40フィートが主流となります。しかし1980年代に入ると米国の規制緩和や欧州の独占禁止法適用により海運同盟は崩壊します。
運賃は需要と供給により決まり、供給側はコスト削減とシエア拡大の為コンテナ船を大型化します。
しかし1996年船腹過剰でコンテナ運賃は下落し、1998年アジア経済危機で為替レートが変動するとアジア圏からの輸出量は減少し1999年日本では海運三社に収束されます。

2000年に入ると自動車専用船、タンカー、LNG船などの長期契約で経常利益を持ち直し、2003年世界の工場・中国からの米・欧への輸出が拡大し続けます。

2018年コンテナ船社ランキングは
①デンマーク / APMマークス *1904年創業
②スイス / MSC *1970年創業
③中国 / COSCO
④仏 / CMA CGM *1996年 CMAとCGMの経営統合
⑤独 / ハパックロイド
⑥日本 / ONE *2018年創業は企業連合 日本郵船 商船三井 川崎汽船 の三社2017年7月 定期コンテナ船事業を統合 オーシャン・ネットワーク・エクスプレス ONE設立します。

第一次世界大戦(大正3-大正7)で貨物船は輸出・輸入の海外航路に引っ張りだことなり、国内貨物は貨物船から鉄道貨物が引き受けることになります。

国鉄時代の青函連絡船では連絡船内に線路を引き込み、貨物列車はそのまま船内に積載されます。乗客は鉄道客車から降車後徒歩で連絡船に乗船します。