【第473号】令和2年5月

 ≪  商船三井 の 歴史  ≫

「三井物産船舶部」

江戸時代に近江商・三井高俊が酒・味噌を売る越後屋を興します。高俊の息子は伊勢から江戸へ出て1673年越後屋三井呉服店(三越)を創業し、京都、大阪で両替商を開業します。

やがて幕府の公金為替にも手を広げ両替商から幕府の御用商人となり、明治維新後は薩長の新政府の資金要請に応え政商の基盤を固めます。明治5年越後屋呉服店から三井を切離し、明治7年井上馨、益田孝らが先収会社(商社)を設立します。明治9年井上馨の新政府復帰に伴い先収会社を解散し、三井組は益田孝に三井物産会社を創設させて三井組内の商事組織を合併させます。三井物産は先収会社時代の武器類の納入業務を継承し、三池炭鉱の販売業務や米穀買付けなど御用商売の商権を獲得します。三井物産は綿糸・絹布・生糸・石炭・米などを取扱い、明治後期には日本の貿易高の二割を占める大商社となります。

新政府は明治11年三池炭鉱の中国向け石炭輸送の拡大を機に、工務省所属の帆船・千早丸を三井物産へ貸与します。さらに大蔵省は船舶購入資金として12万5千円を十年賦、年利六分で貸与します。三井物産はこの資金で英国から汽船・秀吉丸を購入、明治11年横浜石川島造船所に帆船の建造を依頼、明治13年英国から汽船・頼朝丸購入します。

三井物産は鉄製蒸気船で長崎から上海への海運に進出し、石炭部・船舶部に山本条太郎を任命します。当時の上海には台湾石炭、豪州炭、日本の高島炭が競合しておりますが、益田孝・三井物産総括が三池炭鉱(石炭)の一手販売を獲得します。石炭船舶部の山本は清国の英国系船会社から燃料石炭の大量注文を請け、この輸送に政府・工務省から貸与される風帆船640㌧や外国船を傭船します。 傭船が不安定になる明治11年三井物産は初めて729総㌧

汽船・秀吉丸を購入します。続いて明治12年帆船450総㌧を石川島造船所で建造し、更に明治13年英国汽船1100総㌧を購入します。 明治22年三池炭鉱の三井組への払下げが決まると販路を香港・シンガポールへ拡大し、明治27年東京本店内に臨時船舶掛を設け、明治36年門司支店内に船舶部を設置し明治37年船舶部を神戸へ移転します。

昭和5年高速貨物船・畿内丸を建造してニューヨーク超特急サービスを開始、横浜-ニューヨーク間を25日17時間で走破して当時の平均35日を大幅短縮します。

昭和14年日本の造船技術の粋を集めた代表的貨客船 あるぜんちん丸、ぶらじる丸を建造して南米航路に就航します。昭和17年三井船舶は分離独立しますが、昭和22年GHQによる財閥解体で 解散命令がでます。

国際海運の長期低迷により昭和37年政府は、支配船腹量100万㌧基準の企業グループへ海運集約(案)すると発表します。翌年日本の外航船腹936万㌧の90%が六グループ(日本郵船・大阪商船三井船舶・川崎汽船・山下新日本汽船・ジャパンライン・昭和海運)に集約されます。 この集約により開発銀行の融資利子の徴収猶予などと市況の好転により急速に企業体質は改善されます。

「 大阪商船 」

愛媛新居浜の別子銅山は、江戸時代の1690年住友家により発見されます。翌年から昭和48年までの282年間に70万㌧の銅を産出して住友財閥の基礎を作ります。

住友家と精銅は深い縁があり1591年に明国人から、南蛮吹きと称される粗銅から銀を分離する精錬法を学びます。この南蛮吹きによる粗銅から銀を取出す技術を秘伝としており、別子銅山の開堀により住友家の基礎を作ります。 別子銅山の近代化を訴える広瀬宰平は1865年(慶應元年)に別子銅山の総支配人に抜擢されます。住友家は長崎から蘭、中国に輸出する棹銅を生産しますが、当時の銅の輸出は幕府によって管理されます。 住友の銅事業は幕府の国策事業で1868年(慶應四年)幕府は別子銅山接収とします。広瀬は「経験の無い者」の経営は無謀と反論すると、明治新政府は住友の経営継続を許可します。

明治5年広瀬は英国から中古の木造蒸汽船・神戸丸54㌧を購入し、住友の屋号・泉屋にちなみ「白水丸」と命名します。  江戸時代から瀬戸内海の海上輸送は盛んで、明治7年から14年にかけて回天丸76㌧、富丸、安寧丸340㌧、康安丸125㌧、九十九79㌧の購入と新造船で、広瀬は海運業に乗出し四国、山陽、九州、朝鮮航路で活躍します。

明治10年2月西南戦争が始まると住友家は、広瀬を総代理人に指名して住友家の経営権限を委譲します。明治10年9月西南戦争が終結すると、大阪を中心に海運業が大きく発展し外国汽船や大手の三菱汽船、共同運輸会社や中小の汽船会社が入り乱れサービス競争が激化します。明治13年に老朽化した白水丸が小豆島沖で沈没すると、広瀬は「海運業は殖産興業の要である」と考え、明治17年外国汽船や三菱汽船に対抗するには弱小船主の大団結が必要であると説得します。西日本の弱小船主55名が船舶93隻を現物出資、住友は安寧丸、康安丸を現物出資して大阪商船社(資本金120万円)を設立、広瀬宰平が初代頭取に就任します。 明治18年共同運輸と三菱汽船が合併して日本郵船設立となる一年前です。

大阪商船初代頭取で住友家総理人の広瀬宰平は、日本初の鋼船加茂川丸、三連レシプロ機関搭載の宇治川丸を就航します。明治23年に初の海外航路の大阪-釜山線を開設、明治26年大阪-仁川線、大阪-朝鮮沿岸線を開設します。日清戦争後の明治政府は海運を重視して航海奨励法および造船奨励法を施行します。 大阪商船は日本郵船と競うように明治29年台湾航路、明治31年揚子江航路、明治32年北支航路、明治33年南支航路を就航します。

明治37年の日露戦争で多くの船が徴用され一部は撃沈されますが、戦後には大阪-ウラジオストク、大阪-天津、大阪-大連、大阪-香港・上海などを新設します。

海運不況の明治40年代にも北米・南洋・フィリピンへの不定期航を開始し、大正2年にはインド・ボンベイ航路の定期化にこぎつけ、念願の遠洋航路進出を果たします。大正3年の第一次大戦勃発で戦争特需に入ると、大正4年サンフランシスコ航路、横浜-香港線、大正5年豪州南洋線、南米線、大正7年にはスマトラ線 と次々に新航路を開設します。

玄関口・門司港に大阪商船・門司支店の建物が建てられ、大阪商船は黄金時代となります。

昭和39年六社統合で大阪商船三井船舶が誕生、1999年大阪商船三井船舶とナビックスラインは合併して現在の「商船三井」が誕生、日本郵船、川崎汽船の三社に統合されます。