【第472号】令和2年4月

※今月は 平成三十年 葉月号 のバックナンバーです

≪  蝦夷島 と アイヌ民族  ≫

江戸時代まで北海道は蝦夷島といわれますが、明治2年5月箱館・五稜郭で戊辰戦争が終ると明治新政府は7月に開拓使を設置します。8月アイヌ(人間の意)民族と暮らした探検家・松浦武四郎は北加伊道(アイヌ語・この土地に生まれた)と名付け、新政府は北海道と命名します。北海道は東北六県に新潟県を加えた広さですが、当時の蝦夷島は全島が北欧と北米にある落葉広葉樹(ミズナラ・カツラなど)と針葉樹(トドマツ・エゾマツなど)の原生林に覆われております。ナラ類の樹木にはドングリなど木の実が豊富で、下生えの山菜も動物の餌となりエゾシカ・うさぎ・熊などはアイヌの食糧となります。アイヌ民族は海岸線から川沿いに親族単位の小集落(コタン)で暮らします。融雪する三月に川魚、四月から六月は山菜を採り、六月には鱒が遡上し夏まで漁は続き、九月には鮭の初漁となり十一月下旬まで続きます。

十月中旬になると繁殖期となる鹿猟が始まり、木の実のドングリは通年の保存食となります。

冬には罠を仕掛けウサギを狩り、冬眠中の熊を捕獲して生後間もない小熊はアイヌ祭りまで育てます。一年通して自然の恵みから小集落・アイヌコタンでの生計がなり立ちます。

720年完成の日本書紀には659年阿倍比羅夫が後方羊蹄(羊蹄山)に政庁を置き、渡島蝦夷

の住民は蝦夷エミシとして登場します。アイヌ民族は文字を持たず、口承で伝えられた伝承誌(ユーカラ)に象徴されるアイヌ文化は、鎌倉時代後半から江戸時代の三~四百年と見られます。和人から伝来する鉄器を使用し、自身を神(カムイ)に対する人(アイヌ)と称します。

鎌倉幕府の下で港湾都市・津軽十三湊の安藤氏は蝦夷地の渡島半島を管轄する役目となりますが、室町時代の1457年アイヌ民族・コシャマイン首長との争い(小刀を注文したアイヌ人と鍛冶屋の争い)で没落します。そのご1550年松前で蠣崎氏(後の松前藩)がアイヌ有力首長と講和条約を結び、渡島半島の知内と上の国を結ぶ線から先を日本の占有領土とします。

1604年家康から松前藩設立を認められ、幕府がアイヌ民族の本土渡航を禁止すると、アイヌ民族との交易権を独占します。 江戸時代の豪族大名の間に鷹を使う鳥や兎の狩猟が流行すると、松前藩は設立当初から毎年数十羽の稚鷹を将軍家に献上し、諸大名には稚鷹を販売して収益を上げます。1615年から1624年には石狩ほか各地で鷹を捕獲し、年間千両~二千両の収益を上げます。鷹狩りと同時期に島牧村で砂金採取が始まり、やがて門別、様似、大樹、長万部へと広がると本土から三~五千人の砂金採りが入ります。松前藩では専門の金山奉行を置き一人から一カ月・砂金一匁(3.75g)の税金を徴収、砂金七匁は小判一両なので藩の税収は大きな額となります。当時の砂金採取は川床や海辺の砂を水で洗い流す方法なので、川水が濁り川床が変貌しアイヌの重要な交易品の鮭が、秋になっても遡上しなくなり目玉商品の干鮭の生産量が激減します。蝦夷地ではコメが全く採れないので藩の財政は鷹の売上、砂金採取税、本土から集まる商船からの税、アイヌ民族との交易税が財源となります。

アイヌ民族は貨幣を持たないので、生活必需品は年に一度の松前藩での物々交換に依存しております。

年一回の交易場ではアイヌ民族の生活必需品となる、本土からのコメ、酒、煙草、衣類、鉄製品などと、アイヌが用意した干鮭、干鱈、鮑、昆布、ラッコ類の毛皮を交換します。

交換率はコメ一俵(四斗・60㎏)を基準としますが、松前藩は二斗(30㎏)をコメ一俵とし、砂金と鷹に依存していた藩の財源が枯渇すると、一斗(15kg)をコメ一俵としアイヌの取分はさらに半減します。松前藩は自給自足のアイヌ民族にとって交易品は嗜好品と考えておりますが、アイヌ民族にとって最早生活必需品であり交換率の減少は死活問題でした。

1669年松前藩がシコツのマコマイ沖に鷹師を案内するところを、アイヌ民族・首長シャクシャインが襲う争いが起ります。蝦夷島二万五千人のアイヌ民族の内から毒矢を持って決起する350人と、松前藩百人程度の家臣と、商人・砂金掘り・鷹師など三千四百人から傭兵した620人が鉄砲を持って立向かいます。しかし毒矢では鉄砲に叶わず和解の席でアイヌ民族の首謀者らは謀殺されます。この頃の最大アイヌ集落地は60軒300人が暮らす余市にあり、彼らは天塩、宗谷、樺太を含む中国との交易で樺太織物などを取得し、松前藩との交易に不有利はありません。また釧路・厚岸アイヌの、千島産のラッコ皮交易でも不利益はなくアイヌ民族の決起には消極的でした。   カムチャッカ半島から千島列島を南下するロシア人調査に、最上徳内が1785年釧路~根室の探検に入ります。1798年近藤重蔵は幕府の命で国後、択捉を探検し択捉島に「大日本恵登府」の標識を建て、アイヌ人を含めた全員の名を記します。千島列島からラッコを追うロシア人とアイム人の抗争が起ると、1799年幕府は蝦夷島を直轄管理し1802年箱館に奉行所を置きます。1800年近藤重蔵は最上徳内や北前船・1500石の高田屋嘉兵衛と択捉島に上陸し、居住するアイヌ人と択捉開拓に取掛り1803年350万㌧の鮭を採り1万両の利益を得てアイヌ住民と共に潤います。 間宮林蔵は1800年箱館で伊能忠敬に測量を学び1808年樺太測量で海峡を発見、蝦夷島北部の地図を完成します。1807年幕府は松前藩を陸奥に転封して松前・蝦夷島全域を直轄し、1813年ロシアとの紛争を和解します。1821年蝦夷島に松前藩が再着任、以降幕末までロシア人の侵攻はありません。1854年日露和親条約で千島のウルップ島と択捉島の間を国境と定め、蝦夷島は幕府領となります。明治4年新政府は全国統一戸籍を編成、アイヌ民族も日本名で戸籍に登録されます。明治5年和人へ土地が払い下げられ明治8年屯田兵が琴似に開拓入村すると、内地からの移民が急増し明治23年の人口は42万人、明治43年には161万人となります。しかしアイヌ民族の狩猟、漁など生活の場が浸食され、アイヌ民族の人口は1万5千人から1万8千人の微増しかありません。 明治32年アイヌ民族に土地を給付し、農耕民族化を勧めて日本民族同化を進める「北海道旧土人(土地の人の意)保護法」が制定されます。

五大陸七十カ国の五千の先住民族3億7千万人は、その地域の政策決定プロセスから除外され貧困生活を強いられます。国連は1993年を世界の「先住民族国際年」と宣言すると、日本も1997年旧土人法を廃止し「アイヌ文化振興法」を制定、日本の少数民族アイヌを国有の民族として初めて法的に位置づけます。2020年までに制定を目指す、アイヌ民族に関する法律「新アイヌ新法」は、地域、産業振興に取組むことを明記します。

白老アイヌコタンは2020年5月29日にウポポイ・国立アイヌ民族博物館で開業です。