【第474号】令和2年6月

≪  川崎造船 と 川崎汽船  ≫

【 川崎造船所 】 薩摩藩出身呉服商に生まれる川崎正蔵は、長崎で貿易に従事し藩命で金や米を扱います。貿易に着目する川崎は藩庁を説得し大和型船と比べ船内スペースが広く速度も速い西洋型帆船数隻を購入し、薩摩藩の物産を近畿に輸送し利益を得ます。

明治4年上京し明治6年日本国郵便蒸気船会社・帝国郵便汽船会社の副社長となり、東京―琉球間の郵便航路に尽力します。明治8年日本国郵便蒸気汽船会社の経営は、岩崎弥之助に任され同社は明治11年三菱汽船会社と合併します。

川崎正蔵は明治10年大阪に官糖取扱店を開き、琉球の砂糖と琉球反物の運送により巨利を得て念願であった造船業を開始します。薩摩出身の大蔵大輔・松方正義の援助により明治11年川崎築地造船所を開業し、明治13年に兵庫川崎造船所を開業します。明治19年官営兵庫造船所の払下げを受け、明治20年川崎造船所(現・川崎重工)を設立します。明治27年日清戦争の勃発により国内造船業はにわかに活気つき川崎造船所も繁忙を極めます。

還暦を迎える創業者・川崎正蔵は個人経営の限界を感じ、日清戦争後に株式会社への改組を決め明治29年川崎造船所を株式会社に改組します。川崎正蔵は顧問に退き薩摩藩の元老・松方正義(第4代、6代内閣総理大臣)の三男・松方幸次郎を初代社長に迎えます。

松方幸次郎は昭和3年までの32年間、鉄道車両、航空機事業、海運業へ進出、我が国最初の8時間労働制を実施して川崎造船所を我が国有数の重工業会社に育てます。

株式会社川崎造船所としての第一船は明治30年建造する貨客船「伊豫丸727総㌧」ですが、川崎正蔵時代の十年間には新造船80隻の実績を残します。この間に船の材質は「鉄」から「鋼」へと急速に近代化する時代でもありました。

明治35年神戸工場に乾(ドライ)ドックが完成し、明治37年からの日露戦争で新造船と修繕の需要が増大します。乾ドックは川崎正蔵が川崎造船所前方の海面を埋め立ててドックの築造を計画した、明治13年の地質調査から始まります。明治28年のボーリング試験後に社長は松方幸次郎に引継がれます。

この周辺一帯は軟弱地盤で苦労を重ね、水中コンクリート打設工法で明治35年乾ドック(長さ130m 幅15.7m 深さ5.5m 最大収船能力6,000総㌧)が完成します。さらに川崎造船所では船の主機関・蒸気タービン製造も着手します。

松方社長は新規事業の鉄道車両製造に着手し、明治39年兵庫工場を開設して機関車、貨客車、さらには橋桁の製造も手掛けます。しかし日露戦後の不景気で明治40年から明治42年に従業員を半減させますが、明治42年からの政府の造船業保護政策や国際情勢の好転により受注は回復増大し三菱造船と並ぶ軍艦造船会社に成長します。

大正3年の第一次世界大戦が始まると、船舶不足を予測して受注生産方式から見込み大量生産方式に代えて売込みます。しかし終戦後は大量の在庫を抱え、大正11年のワシントン軍縮会議、大正12年は関東大震災、昭和2年の金融恐慌が決定打となり軍部の支援をうけます。 昭和3年松方幸次郎社長は責任をとり辞任します。

【 川崎汽船 】 大正8年川崎造船所(現・川崎重工業)は船舶部門とは別に川崎汽船を設立します。同年川崎造船所は鈴木商店(商社)の出資を得て子会社・国際汽船を設立します。

鈴木商店は樟脳・製糖・製鋼などを世界に展開し、ロンドンの海運取引所のメンバーとなります。第一次大戦の大正3年には鉄、小麦、船など日本を介さない三国間貿易で、大正8年には絶頂期を迎え三井物産、三菱商事を上ります。大正10年川崎造船船舶部、川崎汽船、国際汽船の三社の社長・松方幸次郎は三社を提携するK-LINEを結成し鈴木商店を総代理店とます。

明治から大正初期における日本の海運業は「社船」と「社外船」の勢力に分かれておりました。社船は政府から補助金を受けて定期航路を運行する日本郵船・大阪商船・東洋汽船があり、社外船は独立自営で運営する不定期航路を主体とする海運会社でした。

乱立する社外船は海運市況を押し下げる要因となり、社外船は一大合同して社船と肩を並べて海外へ打って出ようと模索しますが、明治後期には不況と重なり頓挫します。

第一次大戦なかば大正6年、米国は鋼材不足から日本への鋼材輸出を禁止します。鉄鋼業が未熟な日本は、松方幸次郎(川崎造船)・金子直吉(鈴木商店)・浅野総一郎(東洋汽船)ら三者が米国と交渉し大正7年日米船鉄交換契約を結びます。この契約で日本は米国の求める数の船舶を提供し、見返りに米国は相応の鋼材や船舶付属品を日本へ提供します。日本は大量の造船を続けますが大正7年に終戦となると、建造した船舶の大半が在庫となります。

そこで川崎造船に船舶部を設けて貨物船の運用にあたらせ、次いで川崎汽船を設立して船舶部とは別個に海運業を開始します。なおも余剰する船舶の運用先に社外船の合同運動に便乗して、大正8年川崎汽船本社内に事務所を置く国際汽船が設立されます。

川崎造船所と川崎汽船から27万総㌧数の船舶や多くの社外船主から提供を受ける国際汽船は、60隻・32万4000総㌧の船隊を抱えます。国際汽船は日本郵船103隻49万4000総㌧、大阪商船133隻40万総㌧に続き、日本三位の船主となります。

しかし第一次大戦後の不況により8000万円の負債を抱え込んでしまい、大正9年初代・川崎芳太郎が病気により引退すると、松方幸次郎が川崎造船所と川崎汽船と国際汽船の社長を兼務します。 松方は明治後期の社外船の大同団結に倣い、三社合計で103隻79万総㌧の巨大船腹を生かすことを考えます。当時の欧州方面の船腹需要が急増するのを見て、手中の大船腹を欧州に廻すことにします。

大正10年松方は鈴木商店を総代理店としてK‐LINEをロンドンで発足します。K-LINEは大西洋を舞台に欧州、南北アメリカ、豪州、極東の「三国間航路」を開設し、定期航路と不定期航路双方のメリットを生かす臨機応変な配船を実施します。しかしK-LINEが欧米で実績を伸ばしても、国際汽船の実績は上がらず経営には反映されません。昭和2年の昭和金融恐慌により台湾銀行が一時休業すると、台湾銀行に依存していた鈴木商店も休業します。国際汽船は国際興業銀行、第一銀行、十五銀行へ譲渡され川崎造船のK-LINEから離脱、その後昭和12年に大阪商船が引受けます。

昭和16年の太平洋戦争開戦により、日本の海運業は昭和17年日本軍の船舶運営会により戦時の運営指揮は海運統制の下におかれます。