【第471号】令和2年3月

≪  山下汽船 / 山下亀三郎  ≫

商船三井は1999年に大阪商船三井商船とナビックスラインが合併して誕生します。

ナビックスラインは山下新日本汽船とジャパンラインが1989年に合併して誕生。 山下新日本汽船は1964年(昭和39年)の海運二法の実施で、山下汽船と新日本汽船が合併したものです。ジャパンラインは1964年日東商船と大同海運が合併して誕生しました。

新日本汽船は江戸時代中期に、日本酒の醸造元である辰馬家が樽廻船で清酒を輸送することで始まります。明治18年に辰馬回漕店となり、明治42年海運業の辰馬汽船合資会社を設立します。大正5年辰馬汽船㈱となり昭和22年に新日本汽船㈱へ改組しております。

山下汽船は山下亀三郎が石炭商として独立して三年目・33歳の明治32年のとき、三百㌧の石炭の取引で回漕業者から運賃の先払い請求を受けます。このとき「運賃を先取り出来る商買の海運業」に魅力を感じます。明治34年亀三郎は同郷松山出身の海軍大尉秋山真之と面識をえます。石炭商に精を出し1万円の資金がたまる明治36年、12万円で売りに出た英国船2373㌧を1万円の頭金で購入します。日本郵船の欧州航路「土佐丸」の向こうを張って故郷の村の名「喜佐丸」と命名します。 日本郵船は明治29年に横浜から欧州航路の貨客船「土佐丸」を就航し、同時期に北米航路・シアトル航路の貨客船を就航しております。

ロシアとの紛争を秋山大尉から耳にする亀三郎は、海軍省へ直談判し政府御用船を申しでます。門司で上海むけ石炭を積み終えた時に海軍省から御用船の命が入ると、事後承諾ながら急遽横浜で荷降ろして喜佐丸を海軍へ御用船として引渡します。日露戦争開戦前になると石炭商の亀三郎は石炭を大量に買い占めます。開戦後の価格高騰で15万円儲けると、その資金で貨物船を購入し御用船として政府へ差出します。日露戦争で150万円の利益を得て戦争成金と呼ばれますが、戦争後の不況により多額の負債を背負います。この時亀三郎は返済を元金・金利を均等ではなく、利益がでたときに多く返済する変速的な二十年契約を債権者と結びます。この債務はその後の明治42年以降の好況により七年で完済し、明治44年に経営基盤を石炭から海運へ移行させて山下汽船合名会社を設立します。

大正3年オーストリアがセルビアに宣戦布告し第一次世界大戦が勃発すると、独、仏、英へと戦火は一気に欧州全域に広がります。亀三郎は個人船主を集めてトランバー(不定期船)の雄を目指します。日本郵船三十八万重量㌧、大阪商船十八万㌧のころ山下海運はまだ二万㌧の幕下級なので、大至急新造船発注の契約を結びます。海軍・秋山真之が欧州で五年、中国で十年戦争が続くと読んだ通り、世界中からあらいる物資の注文が日本へ殺到して船舶不足はいよいよ深刻となり海運業は空前の好景気となります。 大戦景気で海運と石炭事業で稼いだ粗利益は大正4年で2900万円、大正5年3000万円となり大正6年本社神戸に山下汽船㈱を設立し船腹拡充に取組み、トランバー・山下汽船の名を高め莫大な利益も得ます。

不定期船の王者・三井物産船舶部が日本からシンガポールへ進出すると、大正6年亀三郎も三井物産船舶部と競争しシンガポールへ進出します。

明治11年三池炭鉱の中国向(上海)の石炭輸送を機に三井物産は海運事業に進出します。明治22年三池炭鉱が三井組へ払下られると販路を香港、シンガポールへ拡大します。

成り金王と呼ばれる亀三郎は「山下学校」といわれるほど人を育てることも上手でした。

学士院へ多額の寄付をすると毎年総会に招かれます。これを好機ととらえ亀三郎は人材を集めることにお金をかけ、大学の教授たちに学生をドンドンわが社によこしてくださいと頼み込みます。効あって帝大、早稲田大、慶應、中央などの有名私大と、高等商業学校を卒業する俊英が次々と山下汽船へ入社します。亀三郎は入社に際してわが社は小僧上がりと大学出の秀才を二つの柱としたいと宣言し、小僧は郷里・伊予から筋の良いものを連れてきて仕込み、大学出は給料を大銀行の二割増とします。入社後には教わるのではなく全て自分で考え自分で解決することを徹底します。社内には小学校卒の店童と店童を勤めあげた古参や商業学校新卒の詰襟がおり、皆社内で寝起きする丁稚奉公です。世界へ向かう社員(店童・詰襟)の再教育制度を創り、大学での専門分野の秀才から法律・経済論・文章作成・時事問題や修身・海運実務・習字・英語などを習う山下学校(夜7時から9時)が社員教育を徹底します。

大正6年東南アジア一帯のトランパーを独占する三井物産船舶部を敵に回して、三十名を超える山下学校卒業生がシンガポールへ向います。第一世界大戦中のシンガポールでは南洋とインド方面にある滞貨を配船し、大正7年の終戦後も配船は続き大正10年末までに山下汽船のシンガポール支店は稼ぎまくり三千万円の利益をあげます。

昭和13年時点で山下汽船の不定期船オペレーターの船腹量は日本一となり、第二次世界大戦開戦中の昭和16年に山下汽船は最盛期を迎えます。当時の日本の総船腹数は1962隻で、内訳は日本郵船・133隻、大阪商船・109隻、山下汽船・55隻、大連汽船・54隻、川崎汽船・35隻、三井物産32隻でした。昭和19年創業者山下亀三郎は逝去し山下太郎が社長就任しますが 終戦後の昭和21年GHQにより山下汽船は財閥解体を受け二代目・山下太郎社長は解任されます。昭和27年日米講和協約発効後に、大阪港起点でサンフランシスコ・北米航路を再開します。

石原潔は愛媛県長浜町に生まれ、宇和島中学中退の大正3年14歳で山下汽船の店童として入社し丁稚奉公を勤めます。昭和7年慎太郎、昭和9年裕次郎が誕生、昭和11年山下汽船の小樽に転勤すると樺太からの木材輸送で業績をあげます。昭和12年家族は小樽へ引越し慎太郎、裕次郎は稲穂国民学校へ入学します。父・石原潔は昭和18年東京支店副長となり裕次郎(9歳)は逗子市へ引越しします。裕次郎21歳のとき兄・慎太郎が文学界へ発表する「太陽の季節」で芥川賞を受賞、この作品の映画化で裕次郎は俳優デビューします。

東 海運は大正6年本社神戸に山下汽船が設立すると、同年東京市京橋区南新堀に本社を置く艀回漕業として創立誕生します。東海運は山下汽船の東京湾における専属回漕業者としてスタート、山下汽船の発展と共に業績を伸ばします。戦後GHQの財閥解体により、昭和21年山下海運の関連会社として制限会社となり、昭和24年山下海運との資本提携を解消します。小野田セメントが東京へ進出し、東海運が東京の拠点となると海上輸送を拡大します。

北洋運輸のフェリー航送の歴史は東海運との連絡運輸協定から始まります。