【第470号】令和2年2月

≪  東洋汽船  浅野総一郎  ≫

浅野財閥はセメントから始まり、浅野セメントは北海道から台湾まで日本全国にセメント工場が存在し日本のセメント生産高の半分以上を占めておりました。

明治11年石炭や薪炭を販売する浅野は、元蘭学者に調べてもらい石炭からガスを製造したあとのコークスが燃料に再利用できることを知ります。横浜瓦斯局のただ同然の産業廃棄物・コークス数千㌧を買付け、官営深川セメント製造所に納めて莫大な利益を得ます。

セメントが建設資材の柱になることにいち早く着目し、明治17年官営深川セメントの払下げを受けます。渋沢栄一の助言を得て水力発電や鉄道建設など急増する需要をうけて積極的な経営戦略を展開します。明治19年浅野回漕移転を設立し、渋沢栄一らとともにロシアから汽船を購入して石炭輸送を生業とします。持ち船を増やして他の小規模船会社とともに海運同盟会を結成、日本郵船に対抗する勢力を目指して明治26年頃には八万総㌧数の船腹を有する規模に発展します。 日清戦争後の明治29年に航海奨励法と造船奨励法が施行され、政府は日本船が海外航路に就航する際や新造船建設の際に一定の補助金を出すことになります。この法律の施行を契機として日本の船会社は一斉に海外へ打って出ます。

日本郵船は明治26年日本初の本格的遠洋定期航路「ボンベイ航路」を開設し、法の施行後には欧州航路、北米シアトル航路、豪州航路を開設します。大阪商船も明治29年日本領土となったばかりの台湾航路を受命します。

浅野総一郎は明治29年渋沢栄一、安田善次郎、大倉喜八郎らの出資を受け東洋汽船株式会社を設立します。浅野は直ちに渡米しパシフィック・メイル社及びオリエンタル・アンド・オクシデンタル社へ提携を申し入れます。サンフランシスコ‐香港間の航路を、パシフィック社とオリエント社6隻と、東洋汽船3隻での共同運航を結びます。

明治30年に英国造船会社(ジェイムズ・レイング社とスワン・ハンター社)と、東洋汽船のサンフランシスコ航路用船舶三隻の建造契約を結びます。この三隻が貨客船「日本丸」「香港丸」「亜米利加丸」で明治32年にかけて日本へ廻航されます。日露戦争で東洋汽船の貨客船が軍務に服しているあいだ、サンフランシスコ航路の提携先であるオリエント社が運航を停止しますが、パシフィック社は大型船の建造に乗出します。 日露戦争の大勢が決する明治38年浅野は三菱長崎造船所に12,000㌧級貨客船を発注します。日本初の1万㌧を超える大型貨客船「天洋丸」「地洋丸」「春洋丸」は石炭ボイラーとレシプロ式蒸気機関に変る、蒸気タービンや重油焚きボイラーの採用です。主機関は英国製の輸入ですが燃料が「石炭から石油燃料」に代わる日本船舶史上の一大マイルストーンとなります。しかし日本初の蒸気タービン機関になるはずであった天洋丸は建造に三年近くかかり、その間に英国で建造され日本へ輸入される日本鉄道・比羅夫丸1480㌧が日本初の蒸気タービン船となります。

サンフランシスコ航路の競合船主との対抗上浅野総一郎は前代未聞の一大プロジェクトとして建造を実現し、天洋丸と地洋丸は明治41年 春洋丸は明治44年に竣工します。

貨客船以外では浅野商店が石油類を取扱っており、浅野総一郎は石油時代の到来は必至と考え石油タンカーの運行を計画します。英国から3隻のタンカーを購入するも外国資本との熾烈な石油販売競争や原油関税の引き上げで自社運航は出来ません。三菱長崎造船所で建造される紀洋丸は日本初の本格的外航用タンカーでしたが計画変更で外観はタンカーですが貨客船に改造され南米などの移民船に利用されます。

大正3年第一次大戦が始まると、米国は大正4年米国船員を保護する船員法を成立、東洋汽船の提携先パシフィック社は突然サンフランシスコ航路撤退を表明します。東洋汽船はパシフィック社から3隻を購入、他社もサンフランシスコ航路を撤収した為、この航路の乗船率は急上昇し南米航路と合わせて東洋汽船は空前の利益を計上します。

第一次大戦が終了し経営航路が日本郵船、大阪商船と比べ絶対的に少ない東洋汽船は、戦後の景気後退期に一気に経営不振に陥ります。大正10年有力出資者の安田財閥・安田善次郎が暗殺され、大正13年米国の排日移民法が成立・施行されると収入は激減、大正12年には日本郵船との合併話が持ち上がります。

大正15年サンフランシスコ航路、南米航路とその使用船を「第二東洋汽船」に分離します。第二東洋汽船は日本郵船に合併され東洋汽船は貨物専用の船会社となります。自主営業から庸船主義に転換して所有船を山下汽船、川崎汽船などへ貸し出します。一方ではディーゼル機関船舶の導入と、船舶改善助成施設の活用で建設された新規貨物船を系列の東洋海運や三井物産などへ庸船します。

昭和16年太平洋戦争が勃発すると東洋汽船の所属船は次々と政府に徴用されます。戦後東洋汽船に残った船舶は5隻で1隻は終戦後に触雷沈没します。昭和18年時点で浅野財閥は直系傍系あわせて94社ありますが、終戦後GHQによる財閥解体で東洋汽船も一旦清算されます。戦後の企業再建整備法により第二会社の東洋商船を設立しますが、まもなくこの東洋商船を東洋汽船に改名し、昭和35年日本油槽船に吸収合併され東洋汽船は消滅します。

昭和30年代半ば日本の外航海運業界は海運不況といわれる未曾有の不況に見舞われ、海運再建には合併やグループ化などの再編成が不可欠との認識がたかまります。昭和38年海運二法が施行され、国内150社と外航海運会社の内95社がこの法律に基づく海運集約に参加します。昭和39年※日本郵船(旧日本郵船と三菱海運合併)、※大阪商船三井船舶(大阪商船と三井船舶が合併)、※川崎汽船(旧川崎汽船と飯野汽船が合併)、※ジャパンライン(日東商船と大同海運が合併)、※山下新日本汽船(山下汽船と新日本汽船が合併)、※昭和海運(日産汽船と日本油槽船が合併) 業界は六つのグループに集約されます。近年さらに再編が進み2012年の大手海運会社は日本郵船、商船三井、川崎近海の三社体制となります。

明治29年東洋汽船㈱を設立する際最初に出資するのが、安田銀行(安田財閥)の安田善次郎です。安田は浅野と同郷・富山の出身で浅野の新規事業の資金面を全面支援し、明治31年には浅野セメント(現・太平洋セメント)設立にも資金支援をします。浅野総一郎の関係した事業五十社の全てに安田銀行が金融支援を続け、浅野財閥の金融機関は安田銀行(安田財閥)が受け持ちました。