【第468号】令和1年12月

≪  大正デモクラシー と 大正モダニズム  ≫
大正元年12月第二次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作は、陸軍二個師団(二万人)の増設を提言します。西園寺首相は日露戦争後の財政難から拒否しますが、上原大臣の辞任で後任(現役の大将、中将)を据えられなく内閣は総辞職します。後任首相には陸軍大将の桂太郎が就任しますがこの時桂は宮中(天皇の私的な任務)にあります。首相は府中(天皇の公的な任務)なので憲法違反ではないが憲法精神に反する、と明治憲法の立憲主義を望む動きが台頭します。
立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅は憲政擁護会を結成し、閥族薩長打破と憲政擁護の政治を望む「第一次憲政擁護運動」により第三次桂内閣は62日で総辞職します。
第十六代山本権兵衛、第十七代大隈重信、第十八代の寺内正毅首相がシベリア出兵と米騒動で辞職すると、大正7年原敬は日本初の本格的政党内閣の第十九代首相に就任します。
原敬は衆議院に議席を持つ政党・政友会の党首であり首相指名権を持つ元老・山県有朋も政党から支持される原敬を認めざるを得ません。原敬は盛岡藩出身で明治12年郵便報知新聞社に入社し仏語新聞の翻訳を担当します。ここで政府の目にとまり明治15年外務省に入省し、明治18年外務書記官でパリ公使官に三年間勤務します。帰国後第二次伊藤内閣で外務省通商局長に迎えられ、明治33年伊藤博文が立憲政友会を発足すると原は伊藤と井上馨のすすめで幹事長となります。明治35年衆議院議員に当選、明治39年西園寺公望内閣で原は内務大臣で入閣しております。
大正9年の第一次大戦後の恐慌により銀行閉鎖や紡績・製糸業の操業短縮により中小企業の多くが倒産し、大正10年11月原敬は東京駅で暗殺されます。後任には原内閣の大蔵大臣・高橋是清が第二十代首相となり同時に立憲政友会の総裁となります。高橋内閣が政友会の内紛で辞任すると元老・松方は海軍大臣加藤友三郎を首相に推薦、薩長藩以外の広島藩出身の
軍人では初の第二十一代首相に就任します。  加藤の急死で元老・西園寺は山本権兵衛を第二十二代総理に推薦し、第二十三代清浦奎吾首相は大正13年6月に就任します。
清浦内閣は議会や政党の意思に制約されず行動すべきと、主たる大臣を貴族院議員から選出する超然主義内閣をとりますが選挙で大敗し同年6月総辞職します。
政党内閣復活や普通選挙の要求が日増しに高まり、憲政擁護の運動「第二次憲政擁護運動」が再び発生します。大正13年加藤高明、高橋是清、犬養毅は護憲三派を結成し5月の衆議院総選挙で過半数を獲得すると6月第二十四代加藤高明内閣が発足します。明治憲法下で初の、選挙で選ばれた加藤首相の最大の懸案事項・選挙公約は、原敬首相が急激すぎて国情に合わないと否定し元老山県が危険視した普通選挙法を大正14年に成立します。納税者制限は解除され25歳以上の男子(女子の選挙権は昭和20年)の全てに選挙権が与えられます。
大正9年の有権者数330万人から4倍の1240万人(人口比20%)となります。この内閣から昭和7年犬養毅(5・15事件で暗殺)まで、衆議院の多数を占める政党が内閣を組閣する政党内閣「憲政の常道」が確立され、大正デモクラシー時代となります。
明治後期の日清・日露戦争の勝利で帝国主義の国として欧米と肩を並べ世界の五大国
の一員となるも、国際収支は赤字となり政府は財政と金融を引締めます。
大正3年第一次世界大戦に参戦すると大正4年から大正バブルへ突入します。欧州全土に戦火が広がり連合国の英・露は不足する軍需品などを日本へ求め、欧州から輸入していたアジア市場も日本からの商品の輸入を求めます。
明治の四十五年間に西欧諸国の産業革命の影響を受けた国内の鉄道網の形成や汽船による海運が飛躍的に発展します。また流通や商業も飛躍的に発展し町と都市の基盤も形作られ、都市近郊鉄道の施設と道路網の拡充により自動車や乗り合いバスの都市交通も発展します。経済的には欧米からの会社組織が発達して商人の立場が向上、個人商店が大規模化します。
大正3年年工業労働者は85万人 5年後には147万人となり、重工業の発展で男子労働者が急増し農業国から工業国へ移り替わります。産業、サービス業の発展も目覚ましく、都市への人口集中は立身出世の野望と中流層の大正デモクラシーが台頭します。
電報電話技術の発展や印刷技術の発展により、大衆向け新聞、書籍、雑誌が普及してこれら新しいメディアにより文化、情報の伝播も拡大的に飛躍します。
大正ロマンを代表する画家・竹久夢二は数多くの美人画を残し、また浴衣などのデザインも手掛ける近代グラフィック・デザインの草分けです。 中里介山は長編小説「大菩薩峠」の新聞連載を、昭和に至るまで書き続け大衆娯楽小説の出発点と言われます。小説家・芥川龍之介は、大正4年帝国文学へ「羅生門」を発表し夏目漱石の門下となります。
一般民衆と女性の地位向上に目が向けられる大正デモクラシー時代に入ると、西洋文明の影響を受けた新しい文芸、絵画、音楽、演劇などの芸術が流布します。また思想的にも自由と解放躍動気分が横溢し都市を中心とする大衆文化が花開きます。平塚らいてう は婦人参政権など女性の権利獲得に奔走し、人見絹枝は昭和3年アムステルダム五輪800m走で日本女子初の銀メダルを獲得し女子スポーツ普及の先駆けとなります。
映画では大正元年に民間四社が合併し「日活」が誕生し、大正13年にはカラー映画とアニメ映画が製作されます。関東大震災の教訓から防災対策として大正14年3月ラジオ放送社団法人東京放送局(現NHK)が開始となります。報道メデイアは東京日々新聞(毎日新聞)、東京朝日新聞、報知新聞、時事新報、國民新聞が東京五大新聞として並立します。また大正13年正力松太郎が買収する弱小紙・読売新聞をのちに大新聞社へ成長します。
第一次大戦前に11億円の債務国であった日本は、終戦後の大正9年には27億7千万円の対外債権を保有する債権国となります。大正7年の終戦により欧州列強国が市場に復帰し、輸出が一転不振となると余剰生産物が大量に発生します。大正9年3月の株価暴落から戦後大恐慌となり大正9年には好調だった綿糸、製糸業も半値以下に暴落します。
大正12年9月関東大震災発生、渋沢栄一(83歳)は兜町の事務所で被災します。山本権兵衛首相からの要請で帝都復興審議会委員に就任すると、経済発展東京復興には港湾整備が重要であると東京港の整備、埠頭の建設が急遽実施されます。大正14年には日の出埠頭、芝浦埠頭、竹芝埠頭が完成し、昭和16年には東京国際港が開港します。