【第467号】令和1年11月

 ≪  桂太郎首相 の 時代  ≫
 明治新政府には「元勲」といわれた薩長両藩の指導的政治家、西郷隆盛(薩摩)、木戸孝允(長州)、大久保利通(薩摩)、伊藤博文(長州)が国家の最高政策の決定に当たります。西南戦争後に伊藤博文ほかは皆亡くなります。
明治15年明治天皇は憲法調査のため伊藤博文に渡欧を命じると、伊藤はドイツ帝国のプロセイン憲法を学び帰国後に近代的内閣制度を創設します。誰が初代となるか議論されると、公家・三条実美支持の保守派は四十四歳の伊藤は若いと異論をはさみます。しかし宮中会議で伊藤の盟友・井上馨(長州)は「外国電報を読めなくては」に、山県有朋(長州)も伊藤より他はないと賛成し初代首相は大日本帝国憲法を起草する伊藤博文(長州)に決まります。
 明治18年内閣制度発足後に、天皇を補佐し重要な政治の決定に参与する政治家「元老」が誕生します。明治天皇は伊藤博文(長州)、黒田清隆(薩摩)、山県有朋(長州)、松方正義(薩摩)、
井上馨(長州)、西郷従道(薩摩)、大山厳(薩摩)の薩摩・長州の七名の政治家、軍人を元老に指名します。薩長の藩閥が御前会議に参加し、内閣の首班を決定する権限を握ります。
 1912年(明治45)明治天皇が崩御し大正天皇が践祖(即位)すると、山県有朋、松方正義、井上馨、大山巌と首相経験者の桂太郎(長州)西園寺公望(公家京都)が元老に指名されます。
明治から引継ぐ元老四人(山県、松方、井上、大山)は七十歳を超える高齢で、新たな元老桂太郎が大正2年に死去すると大正5年西園寺公望が元老となり主導を握ります。
 1926年(昭和元)昭和天皇が践祖されると昭和天皇は元老を西園寺公望ただ一人とし、西園寺自らは最期の元老として元老の補充を求めません。西園寺は政党内閣制の定着で元老の機能は年々形式化し、元老が消滅しても内大臣(明治中期から戦前昭和に存在し、宮中にあって天皇を常時輔弼し宮廷の文書事務などを所管した)がその機能を引受ければ大きな問題とはならないと判断します。
明治22年第二代首相・黒田清隆(薩摩)内閣により大日本帝国憲法が発布されます。第三代
山県有朋(長州)首相は明治維新後に西郷従道と共に渡欧して各国の軍事制度を視察、日本陸軍の基礎を築き陸軍軍人初の首相に就任します。 松方正義(薩摩)は明治10年渡仏し仏の経済学者から、日本は中央銀行を持ちその際には仏銀行や英銀行は古い伝統なので参考にせず最新のベルギー銀行を精査するよう勧められます。明治24年5月大日本帝国憲法の下で天皇が元老の助言に基づいて組閣を命じた松方正義(薩摩)が第四代首相に就任します。しかし閣内不一致などで混乱し明治25年8月に辞任します。第五代首相・伊藤博文は初代、五代、七代、十代の四回首相を勤めますが、七元老の内から首相を推薦するので再任はやむをえません。第五代伊藤首相のとき朝鮮東学党の乱をきっかけに、朝鮮の主権を巡って明治27年日清戦争がおこります。翌・明治28年下関講和条約に調印して朝鮮の独立と遼東半島の割譲を明記します。しかし独・仏・露の三国干渉により伊藤内閣は遼東半島の放棄を決め明治29年8月首相を辞任します。
明治29年第六代首相・松方正義(第二次)は、明治30年金本位制を復活しますが進歩党・大隈重信(佐賀)と上手くいかず内閣総辞職します。  明治31年1月第七代首相・伊藤博文(第三次)内閣は山県有朋の政党結成表明より辞任します。明治31年6月大隈重信(佐賀)は板垣退助(土佐)らと憲政党を結成、薩長藩以外からの第八代首相・大隈重信が誕生し日本初の政党内閣を組閣しますが内部分裂で自滅します。天皇の諮問を受け元老は、明治31年11月第九代首相・山形有朋を選びます。桂太郎(長州)は戊辰戦争の奥州各地で転戦し、明治維新の明治3年独留学します。木戸孝允の伝手で山県有朋から陸軍大尉に任じられます。第三次伊藤内閣で陸軍大臣となり、続く大隈内閣、第二次山県内閣の陸大臣を努め山県首相の参謀役を努めます。明治33年清国の義和団事件で英国が日本へ派兵要請すると、桂陸相は二万二千人を出兵し鎮圧し国際評価を高めます。
明治33年立憲政友会を創立し初代総裁の伊藤博文は10月第十代伊藤内閣(第四次)を発足。 西園寺公望(公家・京都)は明治3年軍人を志し公費留学生として仏へ渡り伊藤博文の腹心となります。明治15年伊藤と共に憲法調査で渡欧し、第二次伊藤内閣で文部大臣に初入閣、第四次伊藤内閣では伊藤の病気療養中に内閣総理大臣臨時総理を努めます。
 伊藤博文は四回、山県有朋と松方正義は二回の首相経験があり、残る薩長閥の大物は西郷従道と井上馨の二人だけですが、西郷従道は兄・隆盛の一件で辞退し、井上馨は一旦組閣しますが渋沢栄一と桂太郎に断られ組閣を断念しました。元老院は山県の腹心桂太郎を推薦、明治34年第十一代首相桂太郎が就任し明治35年日英同盟が成立します。 明治36年伊藤は桂の工作で政友会総裁を辞任し政友会との繋がりが途絶えますが、後任の西園寺公望と原敬が政友会を引継ぎます。明治37年から38年の日露戦争で日本は勝利し、米・ルーズベルト大統領の仲介でポーツマスでの和平交渉に成功します。しかし日露戦争で賠償金は取れず、樺太南部の領土と遼東半島の日本への移譲は国民の不満となり日比谷焼打事件が起ります。桂首相は立憲政友会率いる西園寺公望と収拾策を会談し、翌・明治39年1月総辞職して第十二代首相・西園寺公望内閣が成立します。その後桂太郎は一歳年下の西園寺公望と交互に組閣し明治41年7月から第十三代桂太郎(第二次)内閣、明治42年伊藤博文暗殺なると明治43年8月29日韓国を併合(昭和20年9月9日までの35年間)します。明治44年8月から大正元年12月までは第十四代・西園寺公望(第二次)内閣。 大正元年12月の第十五代・桂太郎(第三次)内閣は大正2年2月辞任まで、在職年数は最長2886日となります。
第十六代山本権兵衛(薩摩)、第十七代大隈重信(佐賀)、第十八代寺内正毅(長州)を経て、
大正7年9月第十九代原敬(はらたかし)首相は、薩長肥閥以外の岩手県出身で衆議院に議席を持ち立憲政友会総裁の資格で任命されます。この時の元老は高齢の山県と松方と西園寺公望の三名ですが、政党内閣を認めて元老以外から原敬を首相に推薦します。
第一次世界大戦中には米と日本が、欧州列強に代わり物資の生産拠点として空前の好景気となります。日本は債務国から債権国へ輸入超過国から輸出超過国へと転換し、さらに終戦後には南太平洋の独国の権益を引継ぎ日本の国際的地位も上がります。
明治18年から大正9年まで日本は著しい経済成長を遂げ国内総生産は三倍となります。