【第469号】令和2年1月

≪   日本郵船  貨客船・氷川丸  ≫
明治27年朝鮮半島の権益を争う日清戦争が始まり、明治28年4月日清講和条約に調印して勝利します。講和条約で清国へ李氏朝鮮の独立を認めさせ、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島が割譲されます。しかし講和条約直後に仏・独・露の三国干渉により遼東半島は手放すことになります。戦争に勝利した日本は国際的地位も向上し、賠償金により国内産業は本格的工業化へ踏み出します。明治29年政府は新造船の建設に補助金をだす航海奨励法と造船奨励法を施行し、この法律施行により日本の海運・造船会社は海外航路へ打って出ます。
明治3年土佐の岩崎弥太郎は、東京・大阪・高知間で海上物資輸送を行う九十九商会(三菱商会)を設立します。明治6年国内外に定期航路を開こうとする三菱商会に対して、米国PM社(パシフイック・メール汽船会社)ほか欧米の海運業者は市場を独占し日本はその支配下に置かれます。明治8年岩谷弥太郎は米国PM社の牙城であった日本-上海航路に定期船を就航させます。荷主には貨物を担保とした荷為替金融を取入れ、厳しい運賃競争のなか市場を制します。やがてPM社は日本の沿岸航路から撤退し、上海航路を引継ぐ英国のP&0社も半年後に断念します。明治9年三菱商会は郵便汽船三菱会社に改称し、国内外航路を自由に配船出来るようになります。明治10年の西南戦争では郵便汽船三菱会社は軍事輸送の主役を努め海運事業を飛躍的に発展させます。明治18年郵便汽船三菱会社は、国内での競合相手であった共同運輸会社と合併し日本郵船会社が誕生します。
日本郵船は積極的に航路を拡大し国内主要港に支店、出張所を設けます。外国航路では朝鮮半島、中国、マニラ、ウラジオストクへ定期配船し、東南アジア、南太平洋、北米へは不定期船の運行を開始します。当時の日本の基幹産業は紡績業で、インドからの綿花の輸入量が急増します。しかし日本‐インド間の航路は英・豪・伊の三社が組織する「ボンベイ・日本海運同盟」が支配し、綿花に課せられる高率の運賃が日本の産業振興に大きな障害となっておりました。
明治26年日本郵船は同盟側の強い中止要請に関わらず、国内紡績会社連合会と一年間の輸送契約を結び、本格的遠洋航路・ボンベイ定期航路を開設します。厳しい運賃競争のなか紡績会社との「自国の海運を守らねば」の団結でボンベイ航路は国際的に認められます。
明治29年ロンドン支店を開設しヨーロッパへ向けて出航します。しかし欧米海運会社による同盟は既得権を主張しロンドン港と上海港の寄港を阻止します。最大の集荷先へ寄港できない不利にも関わらず、船隊の拡充を進め13隻体制となり総㌧数で欧州海運会社に匹敵すると、明治35年日本郵船は欧州極東往航同盟への加盟が認められます。
明治29年日本郵船は欧州航路と同時にシアトル航路を開きます。以前から日本・北米間の北太平洋定期航路を運航するのは米国PM社で、1867年(慶應3年)に米政府の補助でサンフランシスコ‐横浜-香港の定期航路を運航しております。米国オクシデンタル&オリエンタル汽船会社と英カナダ太平洋鉄道も北太平洋定期航路を競合して運行しております。
日本郵船ではサンフランシスコ航路は米国会社との競合が厳しくて北米航路の開設に躊躇しておりました。 明治29年2月米国北部を運行するグレート・ノーザン鉄道より日本郵船へ提案があります。同鉄道の東海岸ニューヨークから西海岸シアトルに向かう貨客を、日本からシアトルへの定期航路の開設で相互に接続してはというものです。
サンフランシスコの人口35万人、シアトルは6千人です。しかし米国大陸横断鉄道でのシアトル経由は最短距離にあり、太平洋航路もシアトルはサンフランシスコ航路より250浬(一日海路時間が短縮される)の距離の利点から、日本郵船はグレート・ノーザン鉄道と提携し同航路の開設に踏みきります。日本国としても国際間の渡航客数、国際貿易の荷動き量からみて国家からの補助金交付は不可欠でした。国家としても有事の際は軍隊輸送船として徴用できる自国船を確保すべく理由があり、常時郵便物や外交官を海外に運ぶ自国船を確保する必要があります。
大正3年日英同盟を理由に日本は独国へ宣戦布告し第一次世界大戦へ参戦、独国のアジア太平洋地域へ進出し、戦勝後に独国の権益・青島、山東省、赤道以北を占領します。大戦景気は戦時中の大正3年に軍需で繁忙を極めて、日本郵船の資本金は倍額増資の2200万円とします。大正7年に第一次大戦が終戦となり大正9年の戦後恐慌発生まで、日本は大正バブルの好景気に見舞われます。英・露連合国は軍需品を日本へ求め、欧州からの輸入が途絶えるアジア・アフリカへの輸出も日本が独占し鉱山、造船・商事は花形産業となります。
大正5年に英・独・米は鉄鋼材の日本への輸出を禁止しますが、日本は米国との船鉄交換で鉄鋼の輸入を認めてもらい、完成した船舶を米国へ輸出します。世界的船舶不足で海運業、造船業は急激な発展をとげ日本の海運業は世界三位まで急成長、造船業も技術は世界と肩をならべ米・英につぐ世界三位となります。日本郵船は大正7年資本金1億円とします。
大正10年ワシントン国際軍縮会議では、太平洋と東アジアに権益のある日・米・英・仏・伊・50中など九カ国が参加し軍縮条約を結びます。この軍縮条約で主力艦保有率は、米5:
英5:日本3:仏1.67:伊1.67となりますが、日本は英米保有率の6割を受諾します。日本は戦艦保有制限により、貨客船を軍用代用船として設計し甲板・装甲板を厚くします。
日本郵船が昭和5年にシアトル航路用に建造する12,000㌧級貨客船「氷川丸」は旅客定員が壱等76名、二等69名、三等186名、三菱重工業横浜(ディーゼル・エンジン搭載)で建造されます。当初の貨物は往路がNY向けに生糸、絹製品、緑茶など船腹は1/3程度ですが、復路は綿花、棉製品、小麦粉、小麦で満船となります。往路では外交官、留学生と大勢の移民が乗船し、昭和7年来日する俳優チャップリンがルームサービスの「てんぷら」に大変喜んだというエピソードがあります。
太平洋戦争では病院船として徴用され、厚手の鋼板で造船された氷川丸は機雷に遭うも難を逃れます。終戦後には満州、台湾、中国、南太平洋諸島から750万人を引揚げる必要が生じ、氷川丸は南方の島々の兵士二万人の復員輸送を行います。その後シベリア抑留から逃れた一般邦人を大連から福岡へ輸送します。戦後はシアトル航路に復帰し、船令三十歳の昭和35年引退、昭和36年より横浜山下公園に係留保存される現存する唯一の貨客船です。