【第460号】平成31年4月

≪  サンフランシスコ講和条約  ≫
 昭和27年4月29日天皇51歳の誕生日前日の28日サンフランシスコ講和条約が発効。
昭和22年5月3日新憲法が施行されると、議院内閣制では国会議員でない吉田茂の首相の地位はなくなります。吉田は父と長兄が立候補して当選した高知からの出馬を決め、昭和22年4月25日に現役総理の自由党・吉田茂は一位当選します。しかし社会党が第一党となり片山哲が首相に指名されます。GHQは左派政党を推しておりますが片山内閣は社会党左翼の反乱により八カ月で辞職し、つぎに芦田均が連立内閣を組むも七カ月で総辞職します。
 昭和23年10月14日第二次吉田内閣が成立、吉田は安定した政権を創り日本の独立を実現する準備に入ります。12月1日経済復興のカギを握る貿易庁長に懐刀の白洲次郎が就任
します。その頃の貿易庁は贈収賄の代名詞と言われるほど乱れ、徹底した綱紀粛正をします。白洲は輸出産業を振興させて外貨を獲得し、その外貨で資源を購入して経済成長に弾みを付ける。これまでの商工省は国内産業の育成中心だったと、人事を若手に一新し商工省を通商産業省に変更します。さらに電力や資源関係の行政を通産省外局の資源庁へ集約します。
 戦時中は国策会社の日本発送電㈱が全国の発電と送電を一括して行い、それを全国の九配電が個別に供給しておりした。昭和23年GHQから集中排除の指定を受けた通産大臣と白洲は、日本発送電㈱と九配電を分割民営化する他はないと決めます。安定的電力供給を確保しなければ日本の復興はないと、昭和26年5月九社の電力会社が発足します。日本の生産力は戦前の水準を回復し食糧の心配も無くなると、国民は占領状態に不満をもち「早く講和」を望む声が溢れます。
吉田首相は米国内の経済情勢を探る名目で、池田勇人蔵相・秘書官・宮澤喜一と白洲次郎を特使として講和を主目的に昭和25年4月渡米させます。池田・宮澤はワシントンDCで陸軍省・ドッジ顧問と面談、日本は早期独立の為なら米軍基地存続を認めてもよく、ソ連の動静からも早期独立がなければ政情不安もあると説きます。一方白洲は対日講和担当国務次官宅で、日本の野党には中ソ抜きで米軍基地つきの平和条約には反対、とあるがと問われます。白洲は米国が自国の方針を言わないので非武装中立論という空理空論があります。しかし日本は地理的にソ連に近いので中立という立場ではすぐ共産国日本になり、中立は問題外です。もちろん再軍備も出来なく日米協定で米軍基地を残すのも法的に難しい。最善の方法は米国が占領を終了すると宣告して軍事面以外の内政・外交を完全返還して、いざという場合のみ軍事行動の自由を保持するという方法です。しかし米軍駐留を望む米国は白洲案ではなく、日本から安全保障を依頼する吉田首相案を採ることになります。
 昭和25年6月20日ダレス国務長官顧問が訪韓し北朝鮮境・38度線を視察、翌21日に
来日し吉田首相と会談します。日本が講和条約を結び独立国家となるなら「再軍備」を認めると発言しますが、吉田は「憲法9条」で軍隊は持てない事になっておりますと断ります。四日後の6月25日中国・ソ連の支援を受け北朝鮮は38度線を南下し朝鮮戦争が勃発します。
 第二次大戦後の昭和20年10月に、51カ国の加盟する国際連合(安全保障と経済・社会との国際協力を目的とする)は発足します。昭和25年6月27日に開催される国連の安全保障理事会で、北朝鮮を侵略者と認定して軍事行動の停止と軍の撤退を求める決議を全会一致で採決しますが拒否権をもつソ連は棄権します。米国防総省は日本の軍事的重要性を再認識し、日本を長期占領したいと強硬に主張します。 一方マッカーサーは吉田首相に自衛のため、7万5千人の警察予備隊を創設し海上保安庁に6千人の増員を求め、昭和25年8月警察予備隊(昭和27年保安隊・現在の陸上自衛隊)が創設されます。
 第二次大戦後の朝鮮半島では北緯38度線で冷戦中の米と中国・ソ連は対立し、昭和23年8月15日米国が支援する南側に李承晩が大韓民国成立を宣言します。9月9日ソ連の支援する金日正は北朝鮮の成立を宣言します。中国本土では国民党・蒋介石は国民の支持を失い昭和24年台湾へ撤退し、共産党・毛沢東が掌握します。昭和25年6月北朝鮮はソ連と中国の支援を受け北緯38度線南の韓国へ侵攻し朝鮮戦争が開戦となります。北朝鮮が韓国の首都ソウルを征圧すると、トルーマン大統領はマッカーサーを最高司令官に指名し、米軍は昭和25年9月ソウルを奪回します。10月に中国が大量の議援軍を投入すると再び劣勢に陥るマッカーサーは中国大陸への原爆攻撃を主張します。 昭和26年4月マッカーサーは司令官を解任され羽田空港から帰国し、米国議会でOld soldiers never die、they just fade away と演説します。
 昭和26年2月ダレス国務長官顧問が来日し、講和条約・日米安全保障条約・行政協定の締結が約束されますが、米軍駐留を前提にするには安保条約と行政協定を別途結ぶ必要があります。昭和26年9月 51カ国が参加する講和会議がサンフランシスコで開催され、ソ連、ポーランド、チエコの三国を除く48カ国が調印し日本は独立国家に復帰します。調印後に吉田首相は内密裡に進めていた日米安全保障条約の署名を行います。憲法で戦争を放棄した日本の安全保障は国連の枠内にありますが、朝鮮戦争は続き米国は基地として日本を手放せなく、機能しない国連の代わりに米国の集団防衛の枠内に入ることで日本の平和と安全を守る「米軍の日本駐留を認める」条約を結びます。
 昭和27年4月サンフランシスコ条約を発効すると、公職追放は解除され鳩山一郎など大物政治家が次々に政権復帰します。独立国となった日本は国連へ加盟申請しますがソ連など社会主義国の反対で実現しません。 昭和28年3月ソ連のスターリンが死去すると、7月に国連軍と中朝連合軍は休戦調停に署します。昭和29年鳩山一郎が首相となり昭和31年10月 日ソ共同宣言で国交は回復しますが領土・国境問題は先送りされます。ソ連との国交回復により昭和31年12月に80番目の国連加盟国となります。国連加盟に際する問題「集団安全保障の立場から軍隊を提供する義務」と「憲法9条の戦争放棄」が矛盾するので、加盟申請書には「軍事的協力義務は保留する」とします。 
朝鮮戦争で国連軍が使う軍事物資の注文が日本に集中し金属、繊維などを軸に産業の復興が目覚ましく、昭和29年12月から昭和32年6月までは「神武景気」とよばれ戦前の最高水準まで回復し、経済白書には「もはや戦後ではない」と記されます。