【第461号】令和1年5月

 ≪ 勝 海舟 の 江戸無血開城 ≫
 勝海舟(幼名・麟太郎)は小普請組 勝小吉の長男に誕生。幼少期から剣術を学び一橋家用人を仕えると16歳で家督を継ぎます。剣術の師匠に西洋砲術や西洋兵学が必要になると蘭学を勧められて24歳で本格的に蘭語を学び原書を読みこなして大砲を設計します。
1853年米国の蒸気船4隻が浦賀沖に来航、ペリーは開国親書を幕府に渡します。幕府は親書の写しを広く公開し今後の方針を求めます。麟太郎は外国軍艦の攻撃を防御する大砲を備えた台場を築き蒸気船を建造する、と提言して幕府の目に留まり1855年登用されます。 ペリー来航後に幕府が蘭国に軍艦二隻を発注すると、蘭国は中古の商船一隻を献上します。幹部候補生の養成に長崎海軍伝習所を発足、麟太郎は二カ月程で教師のオランダ語を理解します。1858年3月麟太郎は咸臨丸で長崎から鹿児島を訪れ、島津斉彬に艦内を案内し島津久光とも面識を得ます。井伊直弼大老は1858年6月不平等条約の日米修好通商条約に続いて日蘭・日露・日英・日仏との条約に調印します。開港反対の孝明天皇が激怒するなか十三代将軍家定は急死します。井伊大老が開港反対派や長州の吉田松陰らを安政の大獄で処分すると、公家の岩倉具視は天皇家と徳川家が婚姻関係になる「孝明天皇の妹・和宮の将軍家への降嫁」を画策します。1860年1月 日米修好条約批准のため勝海舟、福澤諭吉、通訳・ジョン万次郎らは咸臨丸で渡米します。サンフランシスコで調印し4月に帰国する直前の3月に桜田門外で井伊直弼が暗殺されます。 1862年孝明天皇の妹・和宮が十四代将軍家茂に嫁ぐ「和宮降嫁」、と引換に1863年家茂は京都へ上洛し義兄・孝明天皇に攘夷(不平等条約の日米通商条約を破棄し元の和親条約に戻す)を約束します。しかしこの約束は、天皇が開国に転ずるまでの時間稼ぎです。このとき長州藩や土佐藩などは倒幕・王政復古の好機とみて諸藩士・浪人なども京都に集まります。1863年8月孝明天皇は急進分子を一掃するため、堺町御門警備担当の長州藩は即刻退去すべしとの勅命をだします。会津藩と薩摩藩を京都御所に入れて九つの門を護り、長州藩と七人の尊攘派公家は処分されて京都を追われます。
孝明天皇は京都守護職の会津藩と薩摩藩を信頼し、長州藩と薩摩藩の間には決定的な溝ができます。1864年6月会津藩部下の新撰組は、長州藩志士が再び京都へ戻ろうとするところを池田屋で襲撃し過激派を征圧します。長州・松下村塾門下生らが再び京都を目指しますが、7月孝明天皇は長州軍を京都から退去させよと勅命をだします。 京都守護職・会津藩と流刑島から戻る西郷隆盛指揮下の薩摩藩が、京都侵攻する長州軍を打ち破る禁門の変(蛤御門の変)では、二万八千の民家が焼失し京都は完全に焼け野原となります。
1864年9月幕府軍参謀の西郷は長州藩へ厳しい処分案を示し、長州征伐は将軍家茂が陣頭指揮を取るべきと主張します。西郷は優柔不断な家茂を持て余し幕府の軍艦奉行を努めていた勝海舟と密かに会談します。勝海舟は十四代将軍家茂に懇望して日本の海軍を背負って立つ有能な青年達を神戸で教育していましたが、この操練所から池田屋事変と禁門の変に参加する過激派が現れて怒る幕府は操練所を閉鎖してしまいます。 
 クビになった勝を海軍操練所の塾頭・坂本龍馬が仲介して西郷との会談が成立します。
龍馬は師匠の勝に対して「西郷吉之助は得体がしれません。巨大な鐘と同じで大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響きます。」と話したといいます。
幕府方の勝が西郷に「薩摩のような雄藩が連合して徳川幕府を倒すべきです。日本は米国のような共和政治を導入すべきです。」と語ると、西郷はいま長州藩を叩くのは考えものだと悟ります。幕臣である勝が見放している幕府の為に、何で外様大名家の薩摩藩が奮迅努力しなければと長州征伐が馬鹿バカしくなり、長州藩へは藩自ら償うようにと示唆します。
1864年暮れ長州藩は自ら自藩を裁きます。しかし「奇兵隊の反乱」を起す高杉晋作は藩を乗っ取り桂小五郎(木戸孝允)に新政権を任せると、桂は藩民全てを兵に仕立てる軍制改革によって藩内を納めます。1865年(慶応元年)将軍家茂は再度長州を撃ちたいと義兄の孝明天皇に願います。慶應二年第二次長州征伐の幕府軍艦は長州・屋代島を攻撃しますが外国製鉄砲をもつ長州軍に圧倒されます。劣勢の報が届くなか将軍家茂は病死、後継者慶喜は勝に長州との休戦協定を結ばせます。しかしこの頃すでに長州藩と薩摩藩は密かに坂本龍馬の仲介する薩長同盟を結んでおります。外国商人が武器弾薬を長州に売ることを禁じられておりますが、龍馬は薩摩名義で購入して長州に引き渡し、長州はコメを薩摩に売り相殺勘定とします
仏国は幕府が形式的に天皇の勅許を求めるだけで外交権は幕府にある。英国は条約については天皇の許可を求めるので外交権は幕府にないと解釈します。幕府に外交権があるとする仏国は幕府を支援、英国は長州と薩摩を積極的に支援しております。
 妹・和宮を将軍家茂に嫁がせ倒幕は許さないとする孝明天皇は、慶應二年12月36歳で病死し暗殺説が流れます。 慶應三年1月祐宮睦仁親王は14歳で践祖(天皇の位につく)します。慶應三年10月十五代将軍慶喜は明治天皇に「大政奉還」を申し出ます。12月倒幕派は慶喜の官職・領地の返上を決定し、岩倉具視は「王政復古」の勅書を裕宮睦仁親王のまえで読上げます。慶應四年1月3日京都鳥羽伏見で戦いになると、朝廷は薩摩・長州を官軍と認め幕府軍は朝敵・賊軍となります。6日慶喜は大阪城から江戸へ敗走し幕府軍の完敗で終幕します。江戸に戻る慶喜に仏国公使が登城して抗戦を提案しますが、慶喜は拒否し隠居・恭順の姿勢をとり12日江戸城から上野寛永寺で謹慎します。 2月3日明治天皇は自ら徳川慶喜を討つため大坂に行幸する勅書をだします。2月15日東征軍の西郷隆盛らは京都を出発、3月5日駿府(静岡)に到着し、江戸城進撃の日を3月15日と決めます。寛永寺で謹慎中の慶喜を警護する山岡鉄舟は、慶喜の謝罪恭順の意を伝えるため駿府に赴きますが、西郷とは面識が無く陸軍総裁・勝を訪ねます。3月9日山岡は勝の書状と捕虜の薩摩藩士を同行し、駿府で西郷と会談して慶喜恭順の意を伝えます。  勝は江戸薩摩藩邸に到着した西郷を訪問し、13日14日の懇談で15日の江戸城進撃は中止となり江戸城は無血開城となります。
3月20日朝廷は慶喜の助命と徳川家存続の処分を決め、江戸城は4月11日新政府軍に明け渡されます。7月17日江戸は東京に改称し9月8日慶應から明治に改元して天皇が生存しておられる元号は一つの「一世一元」を宣言します。在位中は今上天皇と称せられ亡くなった時にその時代の元号が天皇のおくり名となる、明治・大正・昭和・平成・令和へ続きます。