【第459号】平成31年3月

≪ マッカーサー元帥  と  日本国憲法  ≫
 ヤルタ会談の密約通り昭和20年8月8日ソ連は日本へ宣戦布告し、満州・南樺太・千島列島へ侵攻します。ソ連の侵攻と原子爆弾の投下で8月15日ポツダム宣言受諾、昭和天皇の玉音放送で終戦詔書が発布されます。米・トルーマン大統領にGHQ・連合国軍最高司令官に任命されるマッカーサーは、8月16日全日本軍に戦闘停止を命じます。ソ連の上陸作戦は継続され9月4日までに択捉島、国後島、色丹島を占領し、5日歯舞島に上陸します。
 昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時、マッカーサーは米国の植民地フィリピンの極東陸軍の司令官となります。開戦と同時に日本軍がルソン島へ上陸すると、マッカーサーは翌年3月I shall returnと宣言しフィリピンから豪州へ敗走します。昭和17年南西太平洋の米軍・豪軍・英軍・蘭軍を指揮する極東軍事司令官となり、昭和19年10月フィリピンへ帰還します。 昭和20年8月29日GHQ最高司令官・マッカーサーは厚木飛行場に進駐、9月2日東京湾の戦艦ミズーリ号で日本代表・重光葵全権大使と連合国代表の英・米・中華民国・豪州代表らが降伏文書に署名します。9月11日A級戦犯の逮捕命令がでると、米議会では昭和天皇も戦犯として裁くことが提出され、皇室も戦争犯罪人となる可能性がありました。  昭和天皇(45歳)はマッカーサー(65歳)へ会談を申し出、9月27日米・大使館で直立不動の天皇は「戦争に関する一切の責任は天皇の私にあります。日本には惟一人の戦犯も居りません。如何なる極刑に処されても応ずる覚悟がありますが、八千万人の国民の衣食住にはご高配を賜りますように。」と直訴する天皇を、マッカーサーは「最高の紳士」として敬います。 11月米国内で天皇の戦争責任調査要請がでますが、マッカーサーは戦争責任を追及出来る証拠は一切ない。と回答します。二人の会談は通算11回になりますがその記録は全く残されません。9月27日の天皇とマッカーサー会談の写真が新聞にのると山崎内務大臣は新聞社を不敬として発禁処分にします。 GHQは山崎内相の罷免を求め10月5日東久邇内閣は総辞職し幣原喜重郎内閣となり吉田茂(67歳)は外相に再任します。
吉田は外務省人事を一新、懐刀の白洲次郎(43歳)をGHQ対策の終戦連絡事務局参与に迎えます。白洲次郎は大正8年英・ケンブリッジ大学へ留学、昭和3年帰国し英字新聞社へ就職。岳父・伯爵樺山愛輔の人脈を得て昭和12年渡英先で、駐英特命全権大使で反戦派の吉田茂と面識を得ます。吉田茂の代理人で終戦連絡参与の白洲は、GHQとの交渉では英国仕込みの語学で応じ「従順ならざる唯一の日本人」といわしめます。
マッカーサーは戦後の日本へアメリカ流民主主義を持ち込む為、大日本帝国憲法にかわる民主主義憲法が必要と考えます。 昭和20年10月4日皇族で元首相の近衛文麿がマッカーサーを訪ねると、マッカーサーは近衛に帝国憲法改正の必要性を説きます。近衛は京大時代の憲法学者佐々木惣一京都帝国大学教授に依頼し、憲法改正調査会を編成します。
一方改正反対の幣原内閣は憲法問題調査委員会を設置して国務大臣・松本蒸治は憲法改正案を起草し、宮内省と内閣が別々に憲法改正案を作成します。
米国内の世論が近衛の戦争責任を追及すると、11月1日マッカーサーは近衛の憲法改正案にGHQは関知しないと発表し近衛は12月6日戦犯に指名されて16日服毒自殺します。
昭和21年元旦の新聞に「新日本建設に関する詔書」 昭和天皇の意思を現す文書が掲載されます。「朕と 国民との間には 終始相互の信頼と敬愛とに依って結ばれ 単なる神話と伝説に依って生ずるものに あらず。」 天皇の人間宣言です。
マッカーサーは「未来は少数の者に設定されることはない。日本の大衆にとって自ら統治する権利が有り、自らなすことを成さねばならない。」と応え 権利と義務を訴えます。
そもそもGHQが憲法を制定することは国際法・ハーグ条約に違反します。実質米国軍だけで組織されているGHQに、ソ連が不満を抱きGHQをチェックする11カ国の極東委員会を設置します。ソ連は昭和21年2月26日開催予定の極東委員会で、日本に共和制を布くと決定させて日本に大混乱を起させソ連の北海道侵攻を敢行しようと画策します。
マッカーサーは天皇の権限を全面的に剥奪し、憲法に象徴(シンボル)の名称を残すことが日本の国体を護り国民の納得を得るという結論に達します。マッカーサーは2月3日GHQ民政局に象徴天皇・戦争放棄・封建制廃止を三原則とする憲法改正草案作成を命じ、2月12日までをその期限とします。 翌4日民政局の陸軍将校11名、海軍士官4名、軍属4名、女性を含む秘書6名の25名が選ばれて六日後の2月10日にGHQ改正草案が完成します。
昭和21年2月13日外務大臣官邸で憲法改正・英訳版松本案をGHQに提示すると、自由と民主主義の観点から容認できない拒否され、吉田や白洲も予期しない出来たばかりのGHQ改正草案が提示されます。 幣原首相がマッカーサーに面会を申し出ると、マッカーサーは極東委員会でのソ連の強硬姿勢を伝えます。2月22日の閣議で幣原首相は、GHQ案は提案ではなく司令であり日本には自主的な憲法を作成する立場にないと天皇へ報告します。
2月26日ワシントンDCで第一回極東委員会が開催されます。3月7日開催予定の第二回極東委員会で、憲法改正に「待った」を掛けられるのではと焦るGHQは、3月4日までに修正日本語訳案の提出を急がせます。吉田茂は独立を回復した後に憲法を再度改正すればよい、と説得して閣議を通過させ3月6日国民に公表します。間髪を入れずにGHQ・マッカーサーが日本語訳案の支持を表明すると、極東委員会はハーグ条約の審査を主張しますがGHQは強引に押し通します。 昭和20年11月日本自由党を結成する鳩山一郎は昭和21年4月戦後初の総選挙で第一党になり首相に就任するはずでした。しかし大日本帝国憲法改正案が国民に公表されたばかりであり、復活した戦時中の政治家を一掃しようとするGHQは、昭和21年5月鳩山一郎を公職追放して吉田内閣が誕生します。大日本帝国憲法の改正は4月17日「憲法改正草案」として英訳され、吉田首相は6月の帝国議会で憲法改正案の提案説明をします。新憲法は主権在民、人権尊重、戦争放棄を基本精神とする。天皇の地位について「皇室の御存在なるものは日本国民の間に自然に発生した日本国体そのものであると思います。主権在民の主権は、皇室を含めた国民にあることを示し、国体に変化はない。」と説明します。8月24日衆議院で採決、10月6日貴族院でも可決されます。昭和21年11月3日「日本国憲法」は公布され昭和22年5月3日施行されます。