【第458号】平成31年2月

  ≪  山本五十六元帥  と  真珠湾攻撃  ≫
 明治34年長岡中学を卒業する五十六は海軍兵学校へ入学し明治37年11月卒業します。この年の2月に日露戦争が開戦となり卒業の遠洋航海訓練は中止となります。
明治35年に英国は露の極東進出の対抗策として日英同盟を結びます。明治37年朝鮮半島と満州の利権を争いロシア帝国と日本の間で日露戦争が開戦となると、露はバルト海から旅順へ救援艦隊を出動します。しかし英はスエズ運河の通航を認めずバルチック艦隊は遥か喜望峰回りで参戦します。五十六は明治38年21歳で少尉候補生のまま巡洋艦日進に乗込み、日本海海戦に参戦し左手の中指と薬指を失います。日本海海戦でバルチック艦隊に大勝利すると、日本は米・ルーズベルトに調停を依頼して日露講和条約に調印します。日清・日露戦争で「眠れる獅子」清国と、世界最強の「北の熊」ロシアを打ち破ったと世界を驚かせます。
明治45年7月30日61歳の明治天皇は崩御しますが、明治23年発表される「教育勅語」は第二次世界大戦まで日本の道徳教育の根幹となります。勅語とは天皇が政治・行政について伝える「おことば」を文章にしたものです。
 山本五十六は明治42年米国に駐在し、明治44年海軍大学校を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官に就きます。大正5年海軍大学校を卒業し、大正8年再びハーバード大学に二年間留学して米国内を視察します。米国各地で油田・自動車産業・飛行機産業のサプライチエーンを学び大正10年に帰国します。この間大正3年英国は独に宣戦布告すると、日英同盟を結ぶ日本も中国山東省青島の独・東洋艦隊を攻撃し第一次世界戦へ参戦します。第一次世界大戦で勝利する五大海運国・米・英・日・仏・伊は大正11年ワシントン海軍軍縮条約で戦艦・航空母艦の保有制限をします。日本は米・英の6割保有とされますが、加藤友三郎海相は国防とは軍人の占有物にあらず外交にて戦争を避けるものと受け入れます。
山本五十六は大正14年駐米大使館付武官として昭和3年まで対米戦の戦略立案を練ります。昭和5年海軍航空本部技術部長に就くと航空機の発展に努め、昭和7年に海軍航空機は
航空母艦の甲板から離発着可能な国産、全金属、単葉機であるべきとの条件をつけます。
昭和6年満州事変、昭和7年上海事変と続くと、7割保有なくは国を守れず、と強硬派は昭和9年戦艦・空母全廃の軍縮条約破棄を米に通告し、軍備増強により昭和12年日中戦争へ突入します。昭和13年日中戦争が泥沼化すると日独伊三国同盟締結の気運が高まりますが、海軍の米内光政大臣、山本五十六中将、井上茂美少将は加藤友三郎の対米英協調の基本を貫き一丸となり反対します。昭和14年平沼騏一郎内閣は日独伊三国同盟案を再び審議しますが海軍の反対で結論はでません。この間に独は伊と同盟条約を結びます。この夏満州国とソ連の国境ノモンハンで紛争が起り、日本軍がソ連軍に致命的な大敗を喫すると、米国は日米通商航海条約の廃棄を通告します。国内でなお三国同盟反対の昭和14年8月山本五十六は連合艦隊司令長官に就任します。同年8月独ソ不可侵条約が批准されると、昭和14年9月英仏は独に宣戦布告し第二次世界大戦が始まります。
昭和15年5月蘭が独に降伏し、6月パリを無血占領する独・ヒットラーの快進撃が続くと、独・外相特使が来日して悪化した日ソ関係を仲立ちすると約束します。
9月の御前会議で五十六は同盟の締結により米国との衝突の危険性が増大すると発言しますが、日独ソの協議が可能となると期待する多数派が日独伊三国同盟を締結します。    
 米国は昭和15年1月日米通商航海条約を失効、8月石油製品と鉄、クズ鉄の輸出許可制、9月クズ鉄の全面禁輸の対日経済政策を打出します。昭和16年年6月独・ヒットラーは独ソ不可侵条約に違反してソ連へ攻め入り、日本の期待した「日ソ仲介役」は裏切られます。
 昭和16年7月日本は石油資源を求めて南部仏印(現・ベトナム南部)へ進駐すると、米国は8月対日石油輸出全面禁止の強硬な経済封鎖で対抗します。この時点で海軍の船艇隻数は米の68%となり日米決戦可能なり、が海軍の総意となります。しかし石油生産量は日本の一年分を米は半日で生産し全く相手になりません。昭和16年9月山本五十六連合艦隊司令長官は首相・近衛文麿との会見で「一年や一年半ならば十分暴れられますがその先は保証できません。」と答えますが、近衛首相は戦争はNOという結論を出しません。
 北方四島択捉島に集結していた日本軍は、11月26日6隻の航空母艦と183機の艦上戦闘機が出港、12月1日宮中の御前会議で米英蘭三国への開戦が決定します。 12月8日山本五十六は潜水艦と航空機で米国とフイリピンの中継基地・真珠湾を攻撃し、僅か一時間半で米戦闘部隊とハワイ空軍を殲滅します。同時進行のマレー半島上陸に成功、フイリピン爆撃、シンガポール空襲、香港空襲と続く快進撃は、日本と米・英・蘭の開戦となります。
 米国民が真珠湾奇襲を日本の騙し撃ちと批判すると、山本は戦争の早期終結を狙い昭和17年日本本土とハワイの中間地点・ミッドウエィ島に航空基地を築く作戦をたてます。
4月連合艦隊全兵力が参戦するミッドウエィ島作戦が発令されますが、米軍は日本海軍の暗号を解読し、6月4日の攻撃を待ち伏せて迎い撃ちし虎の子の空母4隻を轟沈します。
航空母艦の甲板から艦上戦闘機・零戦を離発着させる山本五十六の空中戦法は、空母4隻を失いやがて零戦の攻撃力は自滅型・神風特攻隊という悲しい末路を迎えます。
この大敗戦を山本五十六は、国民にも政府にも陸軍にも海軍内部にも東条英機首相にも昭和天皇にも知らせず、10日大本営海軍部は「敵根拠地ミッドウエィ島に強烈なる強襲を敢行すると共に、敵重要軍事施設に甚大なる損害を与えたり。」と発表します。この大敗で山本五十六は以降の戦勝への気力を失い、和平を勝取ろうとする意欲も見受けられずガダルカナル
島作戦に突入し、昭和18年4月南太平洋の機上で戦死します。
 昭和20年2月クリミヤ半島南端・ヤルタでルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、 スターリン露首相は第二次大戦後の処理について密談します。米とソ連の密約協定締結で独の敗戦90日後にソ連の対日参戦、千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの処理を決定します。昭和16年4月締結の日ソ相互不可条約は、和21年期限終了1年前の昭和20年4月にソ連は延長しないと日本へ通告します。昭和20年5月7日独が降伏すると密約通り三カ月後の、昭和20年8月8日ソ連は日本へ宣戦布告します。
昭和20年8月14日ポツダム宣言を受諾し9月2日に調印し太平洋戦争は終結します。