【第457号】平成31年1月

 ≪  大日本帝国憲法 と 伊藤博文  ≫

1858年日米修好条約が結ばれて貿易は自由化となりますが、日本に関税自主権はなく、裁判は米国国内法による領事裁判所で裁かれるという不平等条約でした。しかし本条約は1872年(明治5年)に改定できるという条項が付記されております。

明治新政府は明治4年、日米修好条約を改定すべく岩倉具視使節団(木戸孝允・大久保利通・伊藤博文ほか)を米国へ派遣します。米国では条約改正など全く相手にされず諦め、近代国家日本のお手本国を探します。米国八カ月、欧州・英国で四カ月、仏で二カ月、ベルギー・蘭・独に三週間、露に二週間、デンマーク・イタリアなどを巡り、帰国途上に欧州諸国のアジア各国の植民地を訪問して1年10カ月後に帰国します。大久保利通・伊藤博文はこの視察により、プロイセン王国・ドイツ帝国を樹立するビスマルクに心酔して帰国します。

使節団の渡欧中に留守を預かる西郷隆盛は朝鮮派兵を閣議決定しますが、帰国する岩倉と大久保の画策により反故にされると明治6年西郷ら留守役の参事は政府を離れます。佐賀の江藤新平・副島種臣らと土佐の後藤象二郎・板垣退助は自由民権運動を唱え、閣議決定が守られないなら政府の威信を国民が疑うことになる。そうさせないため民選議員による国会が必要だと主張します。 明治10年長州の木戸孝允が病死、薩摩の西郷隆盛は城山で自刃、明治11年薩摩の大久保利通は暗殺されて明治国家を創る明治三傑が亡くなります。

岩倉使節団で渡欧し西南戦争時には大久保の人事や戦略の補佐を勤める長州藩・伊藤博文(36歳)が、岩倉具視のもと藩閥政治のトップに立ちます。岩倉は慶應四年に伊藤博文の建議する廃藩置県論に賛同し伊藤を認めております。伊藤は幕末の1863年長州藩が幕府に隠れて英国に密行留学する五人の一人で長州藩の通訳を勤めます。明治3年11月から翌4月には米国へ出張し国債、紙幣、為替、貨幣鋳造の調査をして12月に新紙幣を発行します。

明治12年伊藤は宮中と内閣をはっきり区別して天皇を囲む宮中の勢力を制圧したことで、自由民権運動の鉾先を皇室には向かわせず、天皇の政治的権威は攻撃の対象にはなりません。明治13年民権派の大隈重信らの国会開設懇請運動により、政府は憲法制定と国会開設を決議します。即時制定を唱える大隈重信を失脚させる条件に、明治政府は憲法制度と国会開設を十年後に実現すると約束します。「明治14年政変」

明治15年春、伊藤は伊東巳代治らと憲法調査の為ベルリンを訪問しドイツ式憲法の調査を始めます。議会の権限は出来るだけ縮小し、天皇の権限と政府の権限を強くすること。また普通選挙には危険性が有り議会は二院制にすること。さらには皇室財産を独立します。

伊藤は明治16年6月帰国の途につきますが7月上海で岩倉具視の訃報をうけ、ドイツから帰国すると伊藤は憲法草案の作成を井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治たちに命じます。内政を整備するため、明治18年12月太政官を廃止して内閣制を持ち込みます。内閣制とは内務各大臣が内閣を組織し、内閣総理大臣がその首班となり、内閣の各省に外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部などをおき、初代総理大臣は伊藤博文が天皇から任命されます。

従前の太政官制とは天皇のもとに太政大臣・左大臣・右大臣がおり、その下に参議さらに各省がおかれる王制です。それを総理大臣以下国務大臣が直接天皇を輔弼する任を負う内閣制に代えることは、来るべく憲法発布と国会開催に耐える体制を築くこととなります。

ウイーン駐在公使・公家の西園寺公望(岩倉具視の後継)は伊藤へ、これで日本は文明諸国と同等の政府となり何時議会を開設しても憂いはないと伝えます。

明治21年4月極秘に運ばれていた憲法草案は出来あがりますが、どのような機関で検討するかが次の議題となります。元老院での審議や全国代表者などの意見があるなか、英国流に枢密院を創設して極秘裏に審議することとなります。伊藤博文が議長になり薩・長・土・肥藩出身に明治天皇が加わり、極秘の審議は明治21年4月から明治22年2月まで続きます。伊藤は、欧州では宗教が国家の機軸をなしているが日本には機軸になるべく宗教がない。我が国で機軸とすべきものは皇室のみである。欧州のキリスト教に代るものとして天皇に大きな権限を与えた、と言います。大日本帝国憲法配布の式典は明治22年2月11日に内閣総理大臣・黒田清隆のもとで行われます。第1章第一条 大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する。第二条 皇位は、皇室典範の定めるところにより、皇男子孫が、これを継承する。第三条 天皇は、神聖であって侵すべからず。第十一条 天皇は陸海軍を統帥する。第十三条 天皇は、宣戦し、講和し、及び諸般の条約を締結する。

天皇は法律上や政治上の責任を問われなく、人間の基本的人権である国民の権利は大幅に制約されます。これは明治14年政変の自由民権運動のなか、伊藤博文の君主大権を残すビスマルク憲法か大隈重信・福澤諭吉らの英国型議院内閣制憲法か、で争われますが自由民権運動家の圧力から守る憲法になります。また議会の権限はできるだけ縮小し天皇の権限と政府の権限を強くし、普通選挙には危険性があるので議会は二院制にします。明治23年7月第一回衆議院選挙が行われ、11月貴族院と衆議院による第一回帝国議会が開催されます。

明治24年シベリア鉄道の起工式に参列するロシアの皇太子が来日、滋賀から京都へ移動中に沿道警備の巡査に切りつけられます。日本の皇室に対する罪と同じ死刑にすべきという意見のなか裁判所は無期懲役を科します。この一件で日本が立憲国家・法治国家として法治主義と司法権の独立を確立させたことを世界に知らしめます。

治外法権撤廃と関税自主権は日本にとって幕末以来の不平等条約であり、明治24年第二次伊藤内閣は陸奥宗光を外相に迎えます。明治26年条約改正が閣議に出され天皇の裁可を得ます。陸奥外相は英国と明治27年日英新通商航海条約に調印し、治外法権を撤廃し関税自主権も回復します。米、独、伊、仏など15カ国全てでは治外法権を撤廃します。

明治34年桂太郎内閣で陸奥宗光に認められる小村寿太郎が外相に就任、明治35年日英同盟を結び露の脅威に備えます。明治38年日露戦争で優勢になると日露講和条約を結び終戦を迎えます。第二次桂内閣で小村外相は明治44年日米通商航海条約を結び、欧州諸国とも関税自主権を回復します。日清・日露戦争で勝利し欧州列強に肩を並べると伊藤は陸海軍を内閣の統制化に置こうとしますが、明治天皇が発布した憲法として権威がつきすぎてこの憲法が改正され修正されることなく太平洋戦争へと続きます。