【第454号】平成30年10月

≪  台湾 という 国  ≫

台湾は国土面積が九州の85% 漢民族2350万人が住む島国ですが、数%の原住民は数千年前南太平洋から移住しております。琉球王国は1373年明朝と朝貢貿易を始めており、大航海時代の1544年ポルトガル船が沖から台湾島を眺めて「麗しき島」と称賛しております。

1644年漢民族が明王朝を制し清王朝を樹立すると、鄭成功は清朝に抵抗し1661年オランダ統治下の台湾を攻略し鄭政権を誕生します。しかし1683年大陸の清朝が台湾を攻略し合併しますが反清朝派は台湾で土地を開墾し砂糖・塩田の事業を興します。1895年日清戦争で日本が勝利し下関条約で台湾は日本へ割譲されます。1912年中国大陸では孫文により中華民国が設立されて清王朝は滅亡します。 1945年第二次大戦で日本が降伏すると台湾統治は中華民国に復帰します。しかし戦後大陸では毛沢東の中国共産党との内戦で1949年中国共産党が建国され、蒋介石の中華民国は台湾へ追放されます。1951年サンフランシスコ条約で日本は台湾を放棄、1952年日華平和条約に調印し日本と蒋介石の台湾の国交が始まります。

1895年から1945年までの50年間、台湾は日本の占領下にあります。十九世紀に列強の執る植民地政策は、スペインの南米植民地での侵略型、英国のインドの綿花を本国で高級品に加工し販売する搾取型、日本の台湾で行う投資経営型の三パターンに分けられます。

日本は台湾を経済上利益の獲得と、南進への基地を目的として莫大な財力とインフラ整備の為優秀な人材を派遣します。占領後日本政府は大陸に帰りたい人は帰ってもいい、残りたい人は残ってもいいと二年間の余裕を与えますが大半の台湾人は残るという選択をします。台湾統治当初は反日ゲリラで混乱しその鎮圧に明け暮れしますが1898年四代目児玉台湾総督は医学博士・後藤新平を民生局長に迎えます。後藤は台湾には台湾の法がある「郷に入っては郷に従え」と、台湾国土が豊かになる産業振興に勤めます。

ゲリラには過去を咎めずインフラ整備の土木工事に従事させ、利益を与えて治安は一挙によくなります。産業振興のためアジア最大の烏山頭ダムを完成させ、不毛の土地は穀物地帯へ変わり二期作のコメ農業の発展に寄与します。当時の台湾にはアヘンの吸引癖がありますが、後藤は罰するのではなく吸引ライセンスを与え、新たなライセンスは出さないという自然消滅策で撲滅に成功します。マラリア、赤痢、チフスなど伝染病が流行し平均寿命は三十歳未満の台湾に衛生環境と医療の徹底的改善に着手します。一般病院、伝染病、肺病、精神病、らい病などの医療設備は日本人のいない辺鄙なところにも完備しています。米国から新渡戸稲造を呼び、製糖事業や樟脳の生産に力を注ぎ製糖は世界レベルに達し台湾の主幹産業となります。

学校は日本語と台湾語の義務教育で、終戦前の就学率は80%で先生は皆日本から来ています。 終戦前の台湾の平均国民所得は90米ドル/年で、日本は100米ドル/年、中国大陸は30米ドル/年程度でした。昭和20年8月15日正午 台湾全土に玉音放送が流れます。五十年間日本統治下にあり、日本名に改名した全島民・五百万人も狭軌狂乱して喜びます。

9月2日日GHQとの降伏文書で、台湾は蒋介石総統に降伏すべしに署名します。

戦後の台湾は国民党・蒋介石による北京語教育に統一されます。台湾経済は蒋介石(外省人)が来たときから、台湾住民(本省人)は物資欠乏、失業、インフレと深刻な状況が続きますが、政府は農業経済(砂糖、バナナ、コメなど)から工業経済、輸出経済へ転換を計ります。

1966年高雄に輸出加工区が設置され、外資を導入し日本と米国との関係を深め、外資により優秀で安価な労働力を活用し米国が一番の貿易相手国となります。1971年国連の議席が台湾から毛沢東の中華人民共和国に入れ替わり、1972年日華国交断絶となります。しかしこの時期台湾の輸出入は紡績品、電気機械と工具、合板木製品の大幅な黒字に転換し1975年蒋介石死去後には長男・蒋経国が二代目総督を引継ぎます。

1975年から1979年のオイルショックで世界経済が動揺するなか、政府は投資総額70億米㌦を打ち上げ、南北高速道路、鉄道電化、中正国際空港、原子力発電など大型インフラ建設と鉄鋼、造船、自動車など大規模な重化学工業などを推進します。国連脱退で先進国との国交は無くなりますが駐外事務局を設置し、世界にちらばる三千万人の華僑(中国人及び子孫)の働きによって米国、日本、カナダ、西欧州諸国が貿易のパートナーとなります。

新興工業経済地域の台湾、韓国、香港、シンガポールの四地域はNIESとして一躍世界的に注目されます。なかでも台湾は1970年代から貿易収支を黒字化させており、比較的安定してインフレなき高度成長を成しとげ、失業率は問題なく低く貧富の差は圧倒的に小さく、外貨保有高が世界最高水準であり、1970年代のGNP成長率は平均9.8%の台湾はNIESの優等生と一躍世界的に注目されます。1980年台湾北部・新竹市に「科学工業園区」が設置されコンピュータや通信、IC、精密機械などハイテク企業を集積させると、台湾のシリコンバレーと注目されます。また世界の加工場となる台湾には運動靴、傘、自転車、ゴルフクラブなど国際貿易市場で世界一を誇る「メイドイン台湾」は日米先進諸国に溢れます。

蒋経国死後の1988年中華民国初の台湾総統直接選挙により、台湾生まれの本省人・李登輝が就任します。李登輝総統は中華人民共和国を認め、中華民国を「中華民国台湾」と呼びます。また総統任期を1期4年・連続2期の制限を付し独裁政権を防止します。

1992年コンパックがパソコンの大幅値下げに踏み切ると、世界で最も安くパソコンを作れて膨大な需要に対応出来るのは台湾のみでビックチャンス到来となります。1996年李登輝の総統直接選挙まえに中国による台湾海峡の軍事演習がありますが経済的ダメージは全くありません。この頃生産基地は台湾からメイドイン中国へ急激にシフトされますが、中国大陸やアジア諸国の安い労働力により現地から直接完成品を世界へ輸出する構造へ転換します。

2000年の総統選挙では国民党から野党の民進党・陳水扁へ政権交代します。2004年の選挙では台湾独立意識の高まりによって再選を果たします。2008年の総選挙では、香港生まれの国民党・馬英九が当選し2011年東日本大震災の際には援助隊を現地へ派遣し日本を支援しますが2012年日本の尖閣諸島国有化に際しては中国とともに報復処置をとります。2016年の選挙で当選する女性初の民進党・蔡英文総統は、急速な対中接近を図る馬英九政権を強く牽制するも、台湾独立には反対する現状維持派で尖閣諸島は台湾の領土と主張します。2018年7月中国は世界各国航空会社へ台湾を「中国・台湾」と表記するよう申し出ます。