【第455号】平成30年11月

≪ 明 治 維 新 ≫ 

中国の文献・漢書に倭国が見られるのは、紀元前1世紀ころ百余りの小国分立の状態で朝鮮半島に定期的に使者を派遣し貢ぎ物を献上しております。 3世紀ころ内紛状態にあった邪馬台国に、卑弥呼が女王になると祭政一致で国を治めます。239年卑弥呼が魏に朝貢して「親魏倭王」の金印と銅鏡を授かります。4世紀ころ日本は大和政権による支配体制が確立し、6世紀には朝鮮半島の百済から儒教、仏教が伝わります。672年の壬申の乱により673年天武天皇が即位すると、天皇中心の中央集権制が確立し皇親政治の時代が始まります。701年唐との交流が始まると、唐から日本という国号が認められます。 源頼朝が1192年征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開く武家時代は、徳川十五代将軍慶喜が大政奉還する1867年まで続き、天皇の中央集権政治時代は明治・大正・昭和時代の1945年まで続きます。

1853年米・ペリーが浦賀に来航する6月に十二代将軍家慶は死去、12月十三代将軍家定が就任し1856年薩摩藩・島津家の篤妃を迎えます。1854年日米修好和親条約を結び下田と箱館を開港すると列強各国も和親条約を求め、英・蘭・露が続き鎖国が終わります。

孝明天皇の侍従・岩倉具視は武家政府に大政を委任したのは内政のみであり、外交問題は攘夷論(外国を撃退し鎖国を守る)の孝明天皇に権限があると主張します。

初代駐日総領事・ハリスは強引に日本との通商条約を求め、大老井伊直弼は孝明天皇の勅許を得ぬまま1858年に日米修好通商条約を結びます。この条約は関税問題と裁判権が日本に不利益なもので明治政府の重荷になります。開港はならぬという水戸藩を主力とする志士を弾圧する井伊直弼の安政の大獄によって、長州の吉田松陰や越前の橋本左内が粛清されます。混乱のなか岩倉侍従は朝廷・孝明天皇の妹・和宮と幕府十四代将軍家茂が姻戚関係となる結婚を画策し1860年桜田門外の変で井伊大老が暗殺されると孝明天皇は和宮の結婚を承諾します。井伊大老の暗殺により幕府倒壊の速度が一層増し、政局は完全に京都を中心に回りはじめます。1862年幕府は京都守護職を新設し、会津藩主・松平容保は藩士千人を率いて入京、関東周辺の浪士を募集する新撰組に京都市中の警備を任します。1863年家茂は将軍として家光以来京都に入り、義兄孝明天皇に攘夷を約束し孝明天皇も家茂に「政権を委任する」と詔をします。しかし長州藩・尊王派(徳川家より天皇を第一に)は家茂に反発し、将軍暗殺の予告がされると滞在三か月で家茂は大坂から江戸に帰ります。

攘夷派の孝明天皇に徳川幕府を撃てという気運が高まると、徳川に和宮が嫁ぐ孝明天皇は時機尚早とし決断を先延ばしします。このころの薩摩藩は幕府を存続させて自藩の発言力を強めようとして倒幕思想は持っておらず、会津藩と薩摩藩は結束します。朝廷孝明天皇を敬い外国を打ち払う尊王攘夷を唱えた長州藩が警備する堺町御門が、薩摩藩に変更され長州藩寄りの公卿・三条実美ら七人が長州へ都落ちとなり尊王攘夷の長州も京を追われます。この件が長州の薩摩不信へつながり1866年の薩長同盟でようやく倒幕へと続きます。この頃の倒幕派は天皇を「玉・ぎょく」という隠語で唱えその存在が政局を左右すると考えます。

1864年新撰組による池田屋事件と禁門の変で京都は完全に焼け野原となります。池田屋事件で襲撃された長州藩が京都御所蛤御門を襲撃すると、孝明天皇は直ちに長州討伐の勅令を下します。参謀総長は流罪の島から戻る西郷吉之助ですが、長州征伐の陣頭指揮をする徳川家茂に本腰が入りません。このとき西郷が坂本龍馬の仲介で幕府の軍艦奉行・勝海舟と密会すると、勝は幕府の腐敗状況を告げ薩摩や長州ら諸藩が連合して幕府を倒すべきで今長州を叩くのは間違いといいます。1865年第二次長州征伐の敗戦が濃厚ななか将軍家茂が急死すると薩摩と長州が連合します。1866年の年の瀬に孝明天皇は36歳で急死し祐宮(明治天皇)は15歳で天皇となります。1867年10月十五代将軍・慶喜は朝廷に大政奉還を申しで1868年1月王政復古となると鳥羽伏見の戦いが始まります。この月15日明治天皇は元服し17日には王政復古で任命された人事が一新、内政も外交も天皇自ら行うことになります。

今後の新政府は諸外国と親しく交流すると宣言し攘夷論を捨てて開国します。3月西郷隆盛と勝海舟との話合いで江戸城が無血開城されますが、江戸湾に停泊する旧幕府の艦隊が旧海軍総裁榎本武揚により略奪され、榎本は一路北上し箱館に立て篭もり戊辰戦争は続きす。

1868年7月江戸は東京に改称され9月に元号の慶応は明治に改元、以降は今上天皇が亡くなった後にその時代の元号が天皇へのおくり名とされます。京都から二千三百人を従えての明治天皇の大行列は、沿道の大歓迎をうけて二十数日かけて江戸城へはいり政府は江戸城を皇居とすると宣言します。この間に会津城は降伏し関東、東北は完全に制圧されて明治2年5月五稜郭・箱館戦争で戊辰戦争は終わります。

明治2年1月薩摩・長州・土佐・肥前の四藩主は藩籍奉還を願う建白書を提出すると4月までに全国の藩が続き、藩主は天皇から今までの土地を与えられ藩知事に任命されます。

大久保利通は天皇の中央政権を確立する廃藩置県の実施を目指し、薩摩・長州・土佐の士族一万人を募り天皇警護を目的に御親兵(近衛兵)を結成します。明治4年7月明治政府は藩を廃止して、地方統治を府と県に一元化させる廃藩置県を実施して天皇中心の中央集権国家を創ります。幕末に諸外国と結んだ通商条約は関税と裁判権が不平等であり、明治新政府は公平な条約に変えて貰おうと岩倉具視を全権大使に木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら政府首脳の半数以上107名の使節団を編成します。明治4年11月横浜から米国サンフランシスコ・欧州へ視察に出掛けます。岩倉大使は留守をあずかる西郷隆盛に新しい政策は実行しないと厳命しますが12月新紙幣を発効、明治5年旧暦を太陽暦に改め、新橋・横浜間に日本初の鉄道が開通します。5月使節団の米との条約交渉は失敗し米国から欧州を視察します。明治6年徴兵令を発布、明治維新は西郷隆盛の留守政策によって次々に実現されます。

朝鮮が新政府との国交は認めないと主張すると、明治6年西郷の朝鮮出兵が議会で決定されます。9月帰国する岩倉使節団の岩倉の意見を聴いた明治天皇が西郷の朝鮮出兵に反対すると西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣ら参議は直ちに辞任します。

明治10年2月西郷隆盛は兵を率いて鹿児島を出発、九州南部を攻撃しますが政府軍大久保利通に圧倒され9月鹿児島の城山で自刃し西南戦争は終わります。政府軍の大久保利通も翌年暗殺され、明治維新は明治天皇統治の明治時代へ遷ります。