【第453号】平成30年9月

≪  政治家 田中角栄 大正7年-平成5年没 75歳  ≫

大正7年新潟県柏崎近くの二田村で農家の次男に誕生し、14歳の昭和8年高等小学校を卒業し土方で働きます。昭和9年東京で夜学の土木科で学びながら働きます。昭和11年卒業し共栄建築事務所を設立しますが満州へ徴兵されます。結核で昭和15年除隊となり翌16年太平洋戦争が始まると田中土建工業に改称し、年間施工実績は全国五十位内となります。

昭和22年5月3日の新憲法施工前3月31日、第一次吉田内閣が解散すると28歳の田中角栄は衆議院で初当選します。時の片山首相に住宅金融公庫法と公営住宅法の議員立法を提出し、深刻な住宅不足を解消させ田中土建の地盤も築きます。昭和28年道路建設財源確保の為自動車が使うガソリンに税金をかける「道路関連法」は、佐藤栄作建設大臣の支持をえて成立します。昭和26年は吉田首相によりサンフランシスコ条約、日米安保条約が調印され占領時代は終わります。昭和31年10月に鳩山内閣により日ソ国交回復、12月には国連に加盟します。昭和32年岸内閣が誕生し田中角栄は39歳で郵政大臣に抜擢されると、民放テレビ36局を認めます。昭和34年皇太子・美智子妃殿下の結婚式が放映されテレビ時代に突入します。昭和37年44歳で池田内閣の大蔵大臣に就任します。昭和39年東京五輪を迎え新幹線開通、テレビ、洗濯機、冷蔵庫は必需品となりクーラー、カラーTV、マイカーは花形商品となります。東京五輪後に池田首相が病気退陣し11月佐藤栄作が首相に就任します。

翌年6月田中角栄は自民党幹事長に就任し、佐藤内閣で通算四年一カ月にわたり幹事長を勤めます。この間日本は高度成長期を迎え日韓国交正常化、沖縄返還を解決し東大安田講堂事件を頂点とする大学紛争も大学管理臨時措置法で鎮めます。佐藤内閣の昭和46年7月田中角栄は幹事長から日米繊維交渉解決のために通産大臣に変わります。日本の繊維産業は明治、大正、昭和の三十年代まで日本の輸出産業の花形ですが、昭和四十年代には斜陽産業となり人件費の安いアジアに移行し始めており、田中通産大臣の繊維業界への過分な救済資金はアジア移転を助長し同時に日米繊維問題を解決します。

昭和47年5月沖縄返還協定の調印が終わり佐藤栄作は退陣を表明します。次期総理候補 中曽根康弘は出馬を辞退し、田中角栄は昭和47年6月自らの政治哲学をまとめて対外政策の基本を平和、国内政策を福祉に置く「日本列島改造論」を上梓します。昭和47年7月尋常高等小学校卒の54歳の田中角栄総理が誕生します。戦後の歴代首相で吉田茂は国民に喰わせること、鳩山一郎は日ソ交渉で戦争状態に幕を降ろし、岸信介は国民の平和と安全を守る日米安保条約を改定し、池田勇人は所得倍増政策で国民の生活を豊かにし、佐藤信介は沖縄返還交渉を成功させます。昭和46年国連は蒋介石の中華民国が中国を代表することを止め中華人民共和国が加盟します。田中角栄首相は日中国交回復を目指し、日本と中国との間に平和、友好、親善のかけ橋をつくるため内閣組閣のニカ月後に北京へ向います。昭和47年9月田中首相は周恩来首相の迎える北京空港に到着、田中首相の「機は熟しました。一気に国交回復を実現したいのです。」に、周首相も「一気呵成にやりましょう」と応じます。

三日間の日中交渉は「中国は戦争賠償を要求せず」「日米安保を認め」「日本は台湾との政府間の関係を断ち切り、中国を唯一合法な政府として認める」で両国は国交を回復します。

同時に昭和27年日本と台湾の国交を回復していた日華平和条約を解消し、経済交流のみとします。田中首相が帰国すると、戦後賠償も取らずに日本人全員を無事本土に送り返してくれた蒋介石の恩義に反するとして台湾との国交を絶つことを猛烈に反発します。

田中首相は党本部で「中国は動かすことの出来ない隣国であり大国です。そのような国といさかいがあっても政府間で話合いのできるルートがない。毛沢東や周恩来が権力を掌握している今がチャンスなのです。中国とは何でも言い合えるため国交を回復したのです。」と演説します。しかし国内の解散風は吹き止まず11月解散12月選挙となり自民党は議席を減らします。日中国交が回復した一年後の昭和48年10月、田中首相は日ソ平和条約締結のためモスクワ入りし、ブレジネフ書記長へ「北方四島の一括返還をなんとしても実現したい」に応えるブレジネフは、シベリアの地図を広げ資源開発計画を延々と語り始めます。田中首相は聞き流し「日ソが国交を回復してから十七年が流れ、今こそ平和条約を締結する絶好のチャンスではないか。」さらに「日本人はソ連に対して許せない感情がある。それは終戦間際の昭和20年8月9日、ソ連が日ソ不可侵条約を破って参戦し当時の満州になだれ込んだ。日本が無条件降伏したとき、中国政府は大陸にいた数百万人日本軍兵士や在留邦人を母の下に帰れといって全部日本に送りかえした。一方ソ連は満州にいる兵士と日本国民六十数万人をシベリアに送り込んで重労働を課した。と押しまくります。しかし共同声明では「未解決の諸問題を先送りし昭和49年までに解決する」にとどまり、そのご昭和五十年代半ばソ連は「領土問題は解決済み」と発言するようになります。

昭和47年は日銀のドル買い円売りや、列島改造論の不動産買占めで消費者物価が高騰し田中人気に陰りがでます。昭和48年の第一次オイルショックで、一次エネルギーの石油比率77%の日本は、物不足、買いだめ、売り惜しみで日用品の物価も高騰し「狂乱物価」といわれます。米国は「日米安保」の日本へ、アラブ産油国と妥協してはいけないと通告します。しかし石油輸入量の8割を中東に頼る日本は、アメリカ石油メジャーは日本へ石油を供給出来るかと詰め寄りますが回答はありません。田中首相はアラブ支持を明確にするとアラブ各国は日本を「友好国」と歓迎します。田中首相はエネルギーの石油依存度を下げる為に原子力エネルギーへ移行しウラン資源の調達に向います。そのご日本の原発は53基を保有するまでになり3割―4割のエネルギーを原発に依存します。第一次石油ショックの狂乱物価のなか昭和49年11月任期を七カ月残して、二年五カ月で田中角栄は総理を辞任します。

昭和51年2月米・ロッキード社は、トライスターを全日空に購入して貰うため日本政府高官に30億円の政治資金を渡した。と報じ政府高官は国際興業社主・小佐野賢治氏と推測され、田中角栄に丸紅から3億円が渡ったと報じられます。7月東京地検特捜部は田中邸で田中角栄を連行します。昭和58年1月ロッキード裁判丸紅ルートの論告求刑公判の地裁判決で、田中角栄に受託収賄罪の最高刑懲役5年、追徴金5億円の求刑をしますが田中角栄は直ちに控訴します。平成5年12月24日 田中角栄死去につき 公訴棄却となります。