【第452号】平成30年8月

≪  蝦夷島 と アイヌ民族  ≫

江戸時代までの北海道は蝦夷島といわれますが、明治2年5月箱館・五稜郭で戊辰戦争が終り明治新政府は7月開拓使を設置、8月アイヌ(人間の意)民族と暮らした探検家・松浦武四郎は北加伊道(アイヌ語・この土地に生まれた)と名付け新政府は北海道と命名します。

北海道の面積は東北六県に新潟県を加えた広さですが、当時の蝦夷島は全島が北欧と北米にある落葉広葉樹(ミズナラ・カツラなど)と針葉樹(トドマツ・エゾマツなど)の原生林に覆われております。ナラ類の樹木にはドングリなど木の実が豊富で、下生えの山菜も動物の餌となりエゾシカ・うさぎ・熊などはアイヌの食糧となります。アイヌ民族は海岸線から川沿いに親族単位の小集落(コタン)で暮らし、三月に融雪すると川魚を採り、四月から六月は山菜を採り、六月には鱒が遡上し夏まで漁は続きます。九月には鮭の初漁となり十一月下旬まで続きます。十月中旬になると繁殖期の鹿猟が始まり、木の実のドングリは通年の保存食となります。冬には罠を仕掛けてウサギを狩り、冬眠中の熊を捕獲し生後間もない小熊はアイヌ祭りまで育てます。一年通して自然の恵みから小集落・アイヌコタンでの生計がなり立ちます。

720年完成の日本書紀には659年阿倍比羅夫が後方羊蹄(羊蹄山)に政庁を置き、渡島蝦夷の住民は蝦夷エミシとして登場します。アイヌ民族は文字を持たず、口承で伝えられた伝承誌局・ユーカラに象徴されるアイヌ文化は、鎌倉時代後半から江戸時代の三~四百年と見られます。和人から伝来する鉄器を使用し、自身を神(カムイ)に対する人(アイヌ)と称します。

鎌倉幕府の下で港湾都市・津軽十三湊の安藤氏は蝦夷地の渡島半島を管轄する役目となりますが、室町時代の1457年アイヌ民族とのコシャマイン首長との争い(小刀を注文したアイヌ人と鍛冶屋の争い)で没落します。そのご1550年松前で安藤氏の代官・蠣崎氏(後の松前藩)はアイヌ有力首長と講和条約を結び、渡島半島の知内と上の国を結ぶ線から先を日本の占有領土とします。1604年家康から松前藩設立を認められ、幕府がアイヌ民族の本土渡航を禁止するとアイヌ民族との交易権を独占します。江戸時代の豪族大名の間には鷹を使う鳥や兎の狩猟が流行し、松前藩では設立当初から毎年数十羽の稚鷹を将軍家に献上し、諸大名には稚鷹を販売し収益を上げます。

1615年から1624年には石狩ほか各地で鷹を捕獲し年間千両~二千両の収益を上げます。鷹狩りと同時期に島牧村で砂金採取が始まり、門別、様似、大樹、長万部へと広がると本土から砂金採り三~五千人が入ります。松前藩では専門の金山奉行を置き一人から一カ月・砂金一匁(3.75g)の税金を徴収します。砂金七匁は小判一両なので藩の税収は大きな額となります。当時の砂金採取は川床や海辺の砂を水で洗い流す方法なので、川水が濁り川床が変貌しアイヌの重要な交易品の鮭が秋になっても遡上しなくなり目玉商品の干鮭の生産量が激減します。蝦夷地ではコメが全く採れないので藩の財政は、鷹の売上、

砂金採取税、本土から集まる商船からの税、アイヌ民族との交易税に依存する他はありません。アイヌ民族は貨幣を持たないので、生活必需品は松前藩の商場での物々交換による交易に依存します。

年一回の交易場ではもはやアイヌ民族の生活必需品となるコメ、酒、煙草、衣類、鉄製品などとアイヌが用意した干鮭、干鱈、鮑、昆布、ラッコ類の毛皮を交換します。交換率は各々定められますが、基準をコメ二斗(30㎏)を一俵(本来は四斗)と計算します。財源を砂金と鷹に大きく依存していた松前藩は砂金が枯渇すると、アイヌ交易に依存しなければならずコメ一斗(15kg)で一俵としアイヌの取分は半減します。松前藩は自給自足のアイヌ民族にとっての交易品は嗜好品と考えますが、アイヌ民族にとって最早生活必需品であり死活問題でした。

1669年松前藩がシコツのマコマイ沖に鷹師を送るところをアイヌ民族・首長シャクシャインが襲い蝦夷島でアイヌ民族が蜂起する争いが起ります。蝦夷島二万五千人のアイヌ民族から毒矢を持って決起する350人と、松前藩の百人程度の家臣と、商人・砂金掘り・鷹師など三千四百人から傭兵した620人が鉄砲を持って立向かいます。しかし毒矢で鉄砲には叶わず和解の席で首謀者らは謀殺されます。この頃の最大アイヌ集落地は60軒300人が暮らす余市にあり、天塩、宗谷、樺太を含む中国との交易で樺太織物など松前藩との交易には有利な商品を入手しており、釧路・厚岸のアイヌは千島産のラッコ皮の交易での不利益はなく決起には消極的でした。カムチャッカ半島から千島列島を南下するロシア人調査に、最上徳内が1785年釧路~根室の探検に入ります。1798年近藤重蔵は幕府の命で国後、択捉を探検し択捉島に「大日本恵登府」の標識を建てアイヌ人を含め全員の名を記します。千島列島からラッコを追ってくるロシア人とアイヌ人の抗争が起ると1799年幕府は蝦夷島を直轄管理し、1802年箱館に奉行所を置きます。

1800年近藤重蔵は最上徳内や北前船・1500石の高田屋嘉兵衛と択捉島に上陸し居住するアイヌ人と択捉開拓に取掛ります。1803年350万㌧の鮭を採り1万両の利益を得てアイヌ住民と共に潤います。間宮林蔵は1800年箱館で伊能忠敬に測量を学び1808年樺太測量で海峡を発見、蝦夷島北部の地図を完成します。1807年幕府は松前藩を陸奥に転封し、松前・蝦夷島全域を直轄してロシアとの紛争は1813年に和解します。1821年蝦夷島に松前藩が再着任し以降幕末までロシア人の侵攻はありません。1854年日露和親条約で千島のウルップ島と択捉島の間を国境と定め蝦夷島は再度幕府領となります。

明治4年新政府は全国統一戸籍を編成、アイヌ民族も日本名で戸籍に登録されます。明治5年和人へ土地が払い下げられ明治8年屯田兵が琴似に開拓入村すると、内地からの移民が急増し明治23年の人口は42万人、明治43年には161万人となります。しかしアイヌ民族の狩猟、漁など生活の場が浸食されこの間のアイヌ民族の人口は1万5千人から1万8千人への微増しかありません。明治32年にはアイヌ民族に土地を給付し、農耕民族化を勧めて日本民族同化を進める「北海道旧土人(土地の人の意)保護法」が制定されております。

五大陸七十カ国に住む五千の先住民族3億7千万人には、政策決定プロセスから除外され貧困生活を強いられており、国連は1993年を世界の先住民族国際年と宣言します。

日本も1997年旧土人法を廃止し「アイヌ文化振興法」を制定し、日本の少数民族アイヌを国有の民族として初めて法的に位置づけます。 2020年までに制定を目指すアイヌ民族に関する法律「新アイヌ新法」は、地域、産業振興に取組むことを明記し白老のアイヌコタン(旧アイヌ民族博物館)は2020年国立アイヌ民族博物館として改修中です。