【第451号】平成30年7月

≪ 外交官 吉田茂  明治11年-昭和42年  ≫

高知県宿毛市の武家・竹内綱の五男として東京駿河台に誕生し、生誕間もなく横浜の貿易商・吉田健三の養子になります。吉田健三は福井藩士渡辺家の長男に生まれ、長崎で英学を学び渡欧し帰国後に横浜の英国商社で通訳をしながら貿易に関わり莫大な財をなします。

茂11歳の時に健三が急死し土地と資産を合わせて50万円が長男の茂に相続されます。明治30年学習院中等学校の編入試験を受け6年生に編入合格します。学習院は明治中期の華族子弟の教育を目途としており、19歳からの七年間は茂に皇室を敬愛する心が宿ります。明治34年外交官を育てる学習院大学院へ進学みますが明治37年東京帝国大学へ転校します。

日露戦争を終えるポーツマス条約は賠償額に不満が残り、27歳の茂は外交官を選択します。

明治40年日露戦争で占領し間もない中国・奉天に総領事代理で赴任し、大久保利通の次男で外務省・牧野伸顕の長女雪子と結婚して人脈を築きます。新婚の赴任先は日英同盟を結んでいたロンドン領事館で九カ月間を過ごし、次はイタリア大使館に赴任します。

明治45年春に帰国するも七月明治天皇が崩御し元号が大正に替わると支那・安東の領事に赴任します。支那は中国を初めて統一した秦王朝をCinaと発音することから第二次大戦後まで使われます。清朝は大正元年の辛亥革命により袁世凱大統領による共和制・中華民国が建設されます。大正3年サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されると第一次世界大戦へ拡大します。英国と日英同盟を結んでいる日本は独国に宣戦し、大陸進出を目論み中国・袁世凱政府に日本の軍事的、経済的権威を認めさせる対華二十一カ条の要求を突き付けます。中国の門戸開放を主張する欧米からの日本非難は明白で、中国・安東領事の吉田は政府へ反目し満州各地の領事の反対派を募ると帰国を命ぜられ閑職へ転じられます。

大正7年第一次大戦中のトルコが休戦すると吉田は岳父・牧野伸顕に欧州見学を要望します。牧野にはパリ講和会議の全権委員の要請があり、吉田を隋員に加え大正8年パリでの戦勝国平和会議に参加します。6月ベルサイユ条約が成立すると独国は海外植民地を失い日本は五大国の一つの国際連盟理事国となり、パリ会議のあと大正9年41歳の吉田はロンドン大使館勤務になります。大正10年3月から9月に20歳の皇太子裕仁殿下(昭和天皇)が訪欧し、英国で迎える吉田はバッキンガム宮殿の皇太子の部屋で懇談の機会を得ます。のちに第二次大戦後のマッカーサー元帥と昭和天皇との会談に吉田外相が仲立ちをします。

中国への対華二十一か条の要求を米国も破棄を望み、ワシントン会議が開かれ日英同盟は破棄されて山東省の日本の利権を中国へ返還するよう議決されると、吉田は大正11年から昭和2年の七年間の働き盛りを中国・天津総領事と奉天総領事で過ごします。この間大正14年 張作霖が北京を争う国内問題で優位に立ち北京政府の主になるも、昭和3年列車爆破で張作霖は暗殺されます。日本の謀略だと欧州各国から田中義一首相が責められると首相は吉田を外務省次官に迎え、吉田は外務の仕事全体を実質的に統括します。次の浜口内閣でも吉田は次官を継続しますが意見が合わず昭和6年イタリア大使に転ぜられます。

昭和6年9月関東軍が満鉄を爆破し満州事変に突入すると、吉田は軍部の独走を止めるため急遽帰国を願います。昭和7年3月中華民国から独立して日本軍部の傀儡政権満州国が建国されますが、承認を拒む犬飼毅首相は5月に青年将校によりは暗殺されます。海軍大将・斉藤実が首相となると軍部の独走となり昭和8年国際連盟から脱退し日本は世界から孤立します。吉田は昭和11年駐英大使としてロンドンに着任し英国との関係改善を試みます。しかし盧溝橋事件による軍事行動は昭和12年に日中戦争となり首都・南京を占領します。

吉田は昭和13年駐英大使を解かれ帰国します。昭和15年4月独国は西欧を次々と下すと、近衛内閣は日独伊の三国同盟を締結し昭和16年12月真珠湾攻撃から太平洋戦争へ突入します。翌年2月にシンガポールを陥落させると、吉田は和平工作は戦況が優位な時こそと奔走します。しかし6月日本海軍はミッドウェー海戦で大敗し、昭和19年サイパンも陥落し東条内閣は退陣します。フイリピン近辺で勝利すればまだソ連に和解仲介を依頼する可能性はある、との望みも叶わず昭和20年4月沖縄本島に米軍が上陸し陥落します。本土決戦に備える政府へ、吉田は即刻終戦を訴え憲兵隊に連行されます。7月米英中の三国は降伏勧告のポツダム宣言を発表します。鈴木貫太郎内閣が黙殺すると、8月広島、長崎に原爆が投下され頼りのソ連は日本へ宣戦布告し北方四島へ侵攻します。8月14日昭和天皇は、忍びがたきを忍び将来の回復に期待すると録音し、翌15日玉音放送で国民に終戦を告げます。吉田は終戦後の天皇制をどうあるべきか東久邇宮内閣の近衛大臣に相談すると、天皇は本土決戦でなく一人でも多くの日本国民に生き残って欲しい、自分はどうなっても構わないと御前会議で申されたといいます。終戦後8月30日GHQ・マッカーサー元帥が来日し占領政策に取掛ると、東久邇宮内閣で吉田は外務大臣として昭和天皇から辞令を受けます。天皇は吉田にGHQ・マッカーサー元帥との面会を求め、「自分が戦争の全責任を持ち連合国の採決に委ねる為にお訪ねした。」と述べるとマッカーサー元帥は天皇の責任感に激賞し尊敬します。

昭和21年5月吉田内閣が発足すると6月に主権在民、人権尊重、戦争放棄を基本精神とする憲法の提案を説明し、憲法9条の戦争放棄は一切の軍備と交戦権を認めない、これまでの侵略戦争は全て自衛権の発動の名において行われた。と答弁し昭和22年5月3日発効します。昭和25年6月朝鮮戦争が勃発すると、米国は警察予備隊(昭和29年・自衛隊)の設置を要求します。昭和26年9月サンフランシスコの講和条約で日本は独立国となりますが朝鮮戦争は続いており米国は日本へ再軍備を求めます。吉田は憲法9条を盾に拒否しますが、米軍の日本駐在を認め内密に進められていた日米安保条約も吉田首相一人で調印します。

昭和32年防衛大1期生三名が卒業を控え吉田邸を訪ねた。帰り際吉田は「君達は自衛隊在職中国民から感謝され、歓迎されることなく自衛隊を終えるかも知れない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。しかし自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を変えれば君たちが日陰者で有る時の方が国民や日本は幸せなのだ。一生ご苦労なことだと思うが国家の為に忍び堪え頑張って貰いたい。自衛隊の将来は君達の双肩に掛かっている。しっかり頼むよ。」とねぎらいます。