【第450号】平成30年6月

≪   沖  縄   ≫

琉球民族とは沖縄諸島、先島諸島、奄美群島に住む人々です。琉球大学の佐藤丈寛博士は

琉球に住む人々の核ゲノム/DNAを解析したところ、台湾や中国大陸の人々とのつながりはなく日本本土により近いという研究結果を発表しております。

12世紀ころ九州から沖縄へ人々が移住し稲作が伝えらます。14世紀に沖縄本島では尚氏が北・中・南部に分立していた勢力を統一して琉球王朝を作ります。1372年建国まもない

明の洪武帝の招きに応じて尚氏は朝貢貿易を始め冊封(君主・洪武帝と周辺諸国・尚氏が君臣関係を結ぶ)を受けます。15世紀に最盛期を迎え1458年に鋳造された鐘に「琉球国は南海の勝地にして、三韓(1世紀―5世紀朝鮮半島南部の種族)の秀を集め、大明(中国の年号)を輔車(助け)となし、日域(日本)をもって唇歯(互いに助け)となす。」と記されます。尚氏は琉球を統一すると軍備(武器)を撤廃し、挙足による武道「空手」で護りの平和国家・非武装中立を目指します。首里城は王宮であり戦のための天守閣はありません。

1600年関ヶ原の戦いで西軍・薩摩藩は東軍・徳川家康に敗れるも、藩の取り潰しは逃れますが財政難となります。1609年島津軍が琉球王国へ侵攻すると、無防備の琉球国はひとたまりもなく降伏します。冊封の君主・明が薩摩藩の侵略に対して防衛に当たるはずでしたが1589年には満州女真族が南下し中国平原を呑み込もうとし、豊臣秀吉が1592年文禄の役と1596年慶長の役で朝鮮半島へ侵入し、明は李氏朝鮮を守ろうとようやく撃退したばかりで、琉球王国を防衛する余力はありません。しかし琉球国は明朝・清朝と冊封は継続し薩摩藩は琉球を通じて清朝時代には蝦夷産・昆布の輸出の漢方薬の交易で莫大な利益得ます。

1853年米・ペリーが浦賀来航するひと月まえ琉球へ来航して首里城で会見し、翌‘54年琉米修好条約を結びます。幕府は琉球が薩摩藩の付属国であり、かつ清に朝貢する日清両属の琉球王国が米国と結んだ条約に有効性があるかどうか困窮します。

明治4年台湾住民が漂着した琉球人を殺害すると、清朝に琉球国は日本であることを認めさせ、明治7年明治政府は台湾出兵し琉球国に清との冊封を禁じます。明治4年の廃藩置県により明治5年琉球国は琉球藩となり明治12年琉球王国は琉球県となります。国王・尚泰は東京へ移住し琉米修好条約は失効となります。しかし清との領有権は互いに譲らずに明治27年の日清戦争で敗れた清は台湾を割譲し琉球にたいする日本の主権を認めます。

第二次世界大戦末の昭和19年10月に那覇市の90%が壊滅し、昭和20年3月慶良間諸島に米海軍隊が結集し4月米軍55万兵が読谷村へ上陸します。

沖縄県民(45万人)の内戦闘協力者5万5千人、一般県民3万8千人、沖縄県出身軍人軍属2万8千人、日本軍将兵6万5千人、米軍1万2千人 総計20万人の犠牲者により6月23日に終戦となります。 沖縄出身有力者はGHQ・マッカーサーへ「沖縄全住民はいかなる境遇に陥るも、本土同胞と運命を共にしたい。」と嘆願書を提出します、戦後生まれの川勝平大氏は「沖縄にとって日本は守るべき祖国なのだろうか。」と問います。

第二次世界大戦後の世界は西側米国自由主義国とソ連を中心とする東側社会主義国による政治・軍事・経済で対立する冷戦時代へ突入します。昭和25年6月北朝鮮・金日成は中国とソ連の支援を受け北緯38度線以南の韓国へ侵攻すると、米英連合のマッカーサーは沖縄から韓国仁川へ海兵隊を出陣します。昭和26年9月サンフランシスコ条約と日米安全保障条約を締結、マッカーサーは日本へ軍の保有と朝鮮戦争参戦を求めます。吉田茂首相は憲法を盾に再軍備を拒否すると、駐留米軍は朝鮮へ出兵するので国内治安維持を名目に七万人の警察予備隊(現・自衛隊)を創設します。昭和27年7月朝鮮戦争は休戦となり今も続きます。

昭和21年2月北緯30度以南の奄美諸島は、日本の行政権から切離され米運の統治下に置かれます。昭和26年日本の主権が認められたサンフランスコ条約で、沖縄・奄美諸島・小笠原諸島に主権はないとされます。

[アメリカは沖縄諸島に政治を行う権利を持つ】このとき吉田首相はダレス国務長官に、日本には沖縄奄美の「潜在主権」があることを了承させます。昭和32年岸・アイゼンハワー首脳会談では沖縄は潜在主権を確認するに留まり、昭和36年池田・ケネディ首脳会談でも沖縄での日の丸掲揚が認められるに留まります。

東京で生まれ17歳に米国へ転居する日本育ちのライシャワー氏は、JFケネディから要請されて昭和36年から昭和41年まで駐日米国大使を勤めます。当時の米軍部は琉球王国を認める立場をとりますが、ライシャワー大使は国務長官宛てに「日本の過激なベトナム反戦運動や反米感情はアメリカとの関係に危機を起しかねなく、沖縄問題は日米関係のすべてに影響をあたえる最重要課題である。」の書簡を送ります。

日本で唯一地上戦が繰り広げられた沖縄で、米軍は鉄の暴風とよばれる攻撃をおこない沖縄を占領し、戦後は沖縄の司法、立法、行政という施政権を手にし、沖縄の島のなかに次々と基地を建設し米軍の都合が全て優先されます。米ソ冷戦が激しくなるなか、沖縄は太平洋の要石(かなめいし)として基地を拡張するために土地の強制収容や米軍の犯罪などで沖縄の人々は祖国日本への思いを募らせます。昭和40年2月米軍によるベトナム空爆が始まると、春4月那覇市で行われた「沖縄百万人祖国復帰」集会に8万人が集つまります。ライシャワー大使は沖縄の怒りを収め、日米安保を延長するためにも沖縄の日本返還を視野にいれなければと訴え、ようやく昭和41年6月米国務省が沖縄返還へむけて動きはじめます。

昭和47年5月15日 佐藤首相の核密約のなか沖縄返還が実現します。

1995年の沖縄米兵少女暴行事件を契機に普天間基地返還要求が起ります。1996年橋本龍太郎政権で5-7年を実現目標とし日米は全面合意、1997年名護市辺野古移転と決ります。2006年滑走路二本を離陸・着陸に使い分け、集落上空の飛行を避けるY字滑走路で建設計画が決ります。2009年民主党政権へ替わると「核密約」が明らかになり、鳩山首相は県外移設を模索し迷走しますが安保条約は破棄せず、日米両政府は改めて辺野古移設で合意します。

2009年ANAは那覇空港で国際物流事業を始めます。成田、関西など国内4空港の貨物を夕方までに那覇空港に集約し積替え、深夜に貨物専用機で東南アジアのソウル、上海、台北、香港など9空港へ向けて目的地に届ける。帰り便で各国空港から那覇経由で日本各地へ届ける、ハブネットワークシステムの那覇は物流の「要 石」となります。