【第447号】平成30年3月

≪ 八代将軍 徳川吉宗  「在位1716年-1745年」 ≫

1542年ポルトガル人がシナ沿海航海中に難破して薩摩に漂流、以来ポルトガルと薩摩・日本との交流が始まります。室町時代の1549年にポルトガル基督教宣教師・ザビエルが初来日し京都で伝道活動を試みるも、室町末期に重なり叶わず山口で布教活動を始めます。

信長時代には各地の大名の支援を受け基督教信者は全国に百万人を超えたと言われます。秀吉時代にはスペイン・ポルトガルの宣教師が日本各地に影響を与え、もはや彼らの侵害を許すことが出来なくなり1587年筑前(現・福岡)で基督教禁止のバテレン追放令を発令します。大航海時代の英・スペイン・ポルトガルは東洋での交易を求めインド・中国へ侵略しますが、オランダはカトリック国であるスペインから独立する王国であり、宗教的にはプロテスタント系(反キリスト教)の国です。当時の海の主役 英・スペイン・ポルトガル・オランダのなかで最も宗教色の少ないオランダ国王は1610年「ポルトガルが日本とオランダの交易を邪魔しようとするのは、ポルトガルには全世界を自己の領土とする野心を持ち、伝道師により日本国民全てを天主教に帰依せしめ、次いで国を奪わんと考えている。」との国書を家康へ伝えます。

徳川幕府ではローマカトリック教会は天主教、プロテスタント教会を基督教と呼んでおり、天主教との決別を急ぐ徳川幕府は、1615年大阪夏の陣後の1624年スペイン船の来航禁止、1635年には国内から海外への渡航を禁止します。1637年の島原の乱後の1639年にポルトガルの来航を禁止、キリスト教のみならず西洋文明に対して堅く門戸を閉じ、洋書原本並びに漢訳洋書の輸入までも一切厳禁する鎖国体制に入り1853年ペリー来航まで続きます。1641年平戸商館を長崎出島へ移し、オランダのみが出島での交通貿易を許されます。オランダ商館長(キャピタン)は毎春江戸に上り将軍へ拝謁し、海外の特産物を献上することを恒例とします。オランダ船が出島に入港する時は幕府官吏が之を取調べ、西洋の事情に通じた通訳士を置きます。四代将軍家綱の1672年にキャピタンは世界地図を将軍に献上、1683年水戸の宰相が伊勢神宮に地球儀を奉献して西洋の文明は細々ながら日本へ伝わってきます。鎖国でも中国と朝鮮との交易は続きますがキリスト関連の書物は輸入出来ません。

八代将軍吉宗は将軍となる翌年1717年に長崎に来航するキャピタンに命じて西洋の音楽を奏しめ、時々西洋の事情を報告すべきと命じます。またペルシャ産の馬を蘭人に託して27頭を取り寄せ、その内の数頭を種馬として奥州南部に下し、蘭人調教師を江戸に招き馬術を習います。西洋の薬草を小石川の薬園に植付け,房州にインド産・白牛を飼いバターの製造を始めます。青木昆陽から甘藷の栽培法を習うと薩摩より甘藷を取り寄せ甘藷栽培を全国各地に広め、青木は吉宗から将軍家の書物蔵の蘭書を読むことが許されます。

吉宗は農業が立国の基礎と考え、春夏秋冬の種まきから稲刈りに至るまで民に授けることこそ政府の責任である、誤っては天下に申し訳がならないと考え鎖国以来八十年後の1720年キリスト教書以外の蘭書の輸入を解禁します。

古代ローマは紀元前2900年頃からエジプトで用いられる暦を、カエサルがエジプトを征服する紀元前46年に「ユリウス暦」として導入します。ユリウス暦は1年365.25日で4年に1度のうるう年がある太陽暦です。1582年ローマ教会はユリウス暦の誤差を修正する「グレゴルオ暦」を採用1年365.241日とし、うるう年は4年に一度ですが100と400で割切れる年もうるう年とします。中国ではアラビア天文学による精密な天体観測により1280年「授時暦」が採用され明の1644年まで続き、明では「大統暦」に名称をかえ明末まで採用されます。授時暦は太陽暦の基になるグレゴルオ暦より三百年も早く制定され、清王朝ではドイツ・イエズス宣教師による西洋暦「時憲暦・太陰太陽暦」を採用します。

日本では平安時代の862年に中国暦(太陰太陽暦)を参考に宣明暦が採用されておりますが、お手本の中国暦は七十年程で改暦されます。しかし遣唐使の廃止などで中国との交流が途絶える日本では八百年以上使用されます。長い間使用された日本の暦にはおおきな誤差が生まれ、1672年の月食の予測が外れ幕府は「渋川春海」に改歴を託します。渋川春海(1639-1715)は当時の中国の授時暦を参考に、日本と中国との経度を測定し日本(東経139度45分)と中国(東経116度23分)の経度差を加味して、1685年八百年振りに日本独自の暦「貞享暦」(1685-1755)を普及させます。しかし1~2時間の狂いが有り将軍吉宗は西洋の天文学を元にした改暦を指示します。しかし西洋の暦に関する書物は「禁キリスト書」として輸入できず、ガリレオ・ガリレイ以降の西洋天文学の知識も伝わりません。

吉宗の没後1796年改歴の命を受ける天文学者高橋至時は、西洋の天文学書から1798年「寛政暦」を施行し1844年まで採用されます。伊能忠敬は50歳で長男に家督を譲り隠居となり、幕府が改歴に民間人を起用するのを耳にして1795年高橋至時に師事して天体観測、測量を学びます。地球の大きさを知るには子午線1度(子午線:地球の赤道に直角に南極・北極と交差する円)の距離が必要です。精度の高い子午線の距離を求めるため、江戸から蝦夷までの長距離を歩測します。

伊能忠敬は1800年蝦夷地に向け江戸をたち、以来17年かけて日本地図作成します。

独の医師シーボルトは西洋医学の最新情報を日本へ伝えるべく1823年長崎へ来日しオランダ商館医となります。1826年オランダカピタンに同行し江戸で徳川家斉に拝謁します。1823年帰国する際に伊能忠敬の日本地図を持ちだし(密輸出)ヨーロッパに渡ります。

青木昆陽は将軍家の書物を読むことを許されますが蘭学を学ぶものは彼一人しかなく1769年ようやく中津藩・範医・前野良沢47歳が入門し、前野は長崎で小浜藩・外科医・杉田玄白と出会います。杉田は蘭人から解剖書を買い1771年死罪人の腹と解剖書を見比べ、前野は解剖図譜の翻訳に着手します。一日十行、四年間の刻苦奮闘により1774年全部の翻訳が完成し前野と杉田玄白・訳の解体新書が出版されます。前野・杉田の蘭学の後継者・大槻玄沢は1788年「蘭学階梯」を出版しオランダ文法の大意を述べ、大槻の門下生・鳥取藩医・稲村三伯は蘭和対訳辞書を編纂します。大槻の門下には鳥取藩医・稲村三伯は蘭和対訳辞書を偏し、土浦藩士・山村才助は世界地図の研究を、作州津山藩医・宇田川玄随は外科医ばかり蘭書ではなく蘭語の内科書を翻訳します。宇田川の門下生も天然痘の治療の緒方洪庵あり,洪庵の門からは福澤諭吉、大村益次郎、大鳥圭介ら明治維新へ続く逸材が生まれます。