【第445号】平成30年1月

前年12月 第444号で社内報は最終章とさせて戴きました。444号の中から第360号をバックナンバーで再掲載させて戴きます。社内報は読んで下さる皆様にとって「理論武装」となるよう運輸業界や明治維新後の人物像などをご紹介させて戴ました。

≪ 栗林商会 創業者 栗林五朔 くりばやし ごさく ≫

栗林五朔を知らなければ明治以降の北海道の物流の歴史は解りません。栗林五朔は1866年新潟県三条大崎村で栗林得太郎の長男に生まれます。栗林家は鎌倉時代の後期南朝と北朝の二王朝が存在した頃、熊本の南朝派豪族の家臣でしたが南朝の敗北により栗林家は越後に落ち延びます。大崎村で屋号「七郎治」の呉服屋を開業、四代目の七郎治は商人ながら名字帯刀を許される格式高い家柄となります。七代目を襲名する父・得太郎の栗林家の長男五朔は11歳で英語を学び漢学も修めます。19歳に父が亡くなりますが五朔には家業を継ぐ意思は全く無く上京して新聞社に勤めながら簿記学校で複式簿記を習います。

23歳の明治20年に信濃川改修工事で資財供給業を興しますが失敗、明治22年函館の油蝋会社の再建を任され新天地を求めて来道しますが業績は回復せず失敗し閉鎖します。

明治25年天然の良港を持つ室蘭の将来性を確信する五朔は、室蘭で屋号「マルシチ」で酒・味噌などの小売雑貨商を開業します。室蘭港は明治新政府により明治2年築港開始となり、明治19年北海道庁が開設されると空知石炭の積出し港は小樽港だけでなく室蘭港も利用すると決め、道庁は岩見沢―室蘭の鉄道会社を設立します。明治25年鉄道が開通すると室蘭港は明治27年に特別積出し港に指定されます。

明治26年青森―函館―室蘭の三港定期航路を開設した日本郵船会社は室蘭港で代理店を探します。五朔は日本郵船室蘭港の代理店指定を受け、日清戦争開戦前の明治27年に回漕の草分け蛯子源吉と共同で「室蘭運輸合名会社」を設立し28歳で社長に就任します。

北海道炭鉱鉄道会社による室蘭港からの石炭積出し荷役作業は、明治25年の6万㌧から明治32年には70万㌧へ急増し、明治31年から五朔は石炭荷役を請負います。この時石炭と輸送と郵船代理店を機構改革で分離し、明治36年には室蘭港内で煙突に屋号「マル七」の箱根丸25㌧の小型蒸気船を見るようになります。明治37年日露戦争中に室蘭運輸合名会社を解散し栗林営業を発足し明治42年栗林合名会社に変更します。

大正4年から7年の第一次世界大戦が終わると大不況に見舞われますが、五朔は庸船頼りの紙製品、鉄鋼製品、石炭輸送を自社船で賄う方針転換でなんとか乗切ります。

大正8年栗林合名会社を解散、同年栗林商会に長男・徳一を社長に迎えます。戦争リスクの大きい船舶部門は栗林商船が担当し本社を東京へ移します。大正9年道議会議員から衆議院議員へ立候補し当選すると社務全般を徳一に任せ、大正13年五朔は私費で船から鉄道に直結する「本輪西埠頭」の開発に力を注ぎます。昭和4年に完成すると埠頭から石炭・鉄鋼・雑貨を中心にして室蘭港は発展しますが、五朔は完成を見ず昭和2年肝臓を病み62歳で亡くなります。大正2年五朔は室蘭の奥座敷・登別温泉の発展に関わり、滝本金蔵の建てた第一滝本本館と湯元の権利を買収し馬車鉄道を敷き、大正8年発電所を開設し温泉まで電車を開通させ宿泊客を大きく増加させます。

≪  室蘭港から苫小牧港へ  ≫

砂浜で湿地帯の苫小牧勇払平野は、サケ漁やニシン漁で生計を立てていた漁村でした。

明治6年に東京で抄紙会社として創設された王子製紙は、ボロ木綿を新聞紙の原料とする東京・神戸の国内工場は老朽化し経営も悪化しておりました。明治41年鵡川や沙流川上流に大森林地帯を抱え、豊富な水にも恵まれ鉄道も整備されている苫小牧への進出を決めます。

室蘭港へ陸揚げされる建設資材機械類は全て五朔が作業手配を引受けます。明治43年9月新聞用紙の生産が始まると五朔は輸送と保管を請負い室蘭港から出荷する新聞用紙で国内の自給自足を達成します。

大正13年北海道庁の技師は室蘭港からの空知石炭の積出しを、鉄道距離で66㎞近い勇払に世界初の掘り込み式港湾を開港する事業の将来性は高い「勇払築港論」を発表します。

終戦後の昭和21年苫小牧港促進会が結成され昭和26年北海道開発局が新設されると北海道の開発は国の直轄事業として予算化され、昭和26年苫小牧新港工事が起工されます。

しかし砂浜に造る港には漂砂が流れ込むという難題があり、数々の実験を重ねた結果港の水深が10m以上あれば漂砂の影響を受けないということが判ります。昭和38年世界初の掘り込み式港湾として苫小牧港が開港となります。港の造成で掘削した大量の土砂を住宅造成地の埋め立てに利用することで後背地である苫小牧に都市作りに必要な膨大で平坦な土地が造成されました。 [ 2017年 苫小牧人口全道5番目17万人 ]

室蘭港の発展と共に成長してきた栗林商会は、昭和34年苫小牧出張所を開設し昭和35年道南自動車運送㈱を設立します。昭和37年栗林商会苫小牧支店に陣容を拡大し、苫小牧港と共に荷主企業を支えます。苫小牧築港により激増する貨車繰りに対処する国鉄は、昭和38年新操作場を沼ノ端に完成します。建設費の一部は地元利用者の利用比例配分とし、王子製紙・大昭和製紙・国策パルプ・岩倉組・苫小牧埠頭の五社が協力します。最盛期の昭和41年には国鉄貨物取扱数は全国一の12,562㌧となります。

昭和39年藤木海運の車両運搬船(苫小牧丸)は、名古屋からトヨタ車を積み苫小牧からの復荷に新聞用紙の輸送を始めます。昭和39年栗林商船の新造船(神正丸)は洋紙専用船として、苫小牧―東京の定期航路を就航します。昭和44年川崎近海汽船の車両専用船RO船(北王丸)は新聞用紙専用船として苫小牧―東京間を就航します。

昭和47年1月王子製紙苫小牧工場の拡張に際し、製品輸送を国鉄貨物と海上輸送とが激しく競合しますが海上輸送に委ねられます。同年4月苫小牧―東京間を30時間で結ぶ、日本沿海フェリー(しれとこ丸)が就航しトレーラーの無人フェリー輸送の幕開けとなります。

北海道初のフェリーは昭和45年、小樽―舞鶴間の新日本海フェリー(すずらん丸)が就航し近海郵船は昭和47年釧路―東京間に(まりも)を就航します。昭和48年の第一次オイルショックで、貨物は陸上トラック輸送からフェリー輸送へ移り昭和48年苫小牧―仙台―名古屋の太平洋沿海フェリーが就航します。苫小牧は日本最大のフェリー基地となり昭和50年代から各社がフェリー航走に参入し、昭和54年わが社も関東―北海道間のフェリー航走を開始します。     「創業百年・栗林商会記念誌より転載させて戴ました。」