【第446号】平成30年2月

 ≪ HONDA JET ≫

2017年上半期 24機を納入し 小型ジェット機市場で米セスナ社を抜き 世界一の小型ジェット出荷数を達成します。

本田宗一郎は16歳の大正11年に自動車修理業・東京アート商会へ丁稚奉公に出て昭和3年暖簾分けで浜松にアート商会浜松店を開きます。順調に業績を伸ばす中、修理業から製造業を目指して昭和11年ピストンリング製造の東海精機重工業を設立します。試行錯誤の試作品は全て失敗、冶金学・金属学を浜松高等工業で学びます。昭和12年試作品三万本から50本を厳選しトヨタへ売り込むも、合格品は3本のみです。宗一郎は東北帝大、室蘭製鉄所、北大、盛岡南部鉄職人、九州帝大の実験室や工場を見学し製造技術を習得します。昭和12年日本と中華民国の間で日中戦争がおこると軍需工業動員法で全てが政府に管轄されます。28件の特許をとる宗一郎は昭和14年ピストンリングの大量生産を開始し、トヨタや戦闘機の中島飛行機へ納入します。昭和16年太平洋戦争が開戦となると東海精機はトヨタの資本40%と社長・石田退三を受けいれます。昭和19年12月の南海大地震が東海地区を襲い浜松の東海精機の全工場が倒壊し、昭和20年8月の終戦でGHQが自動車製造を禁止すると飛行機も自動車もピストンリングの需要はなく、宗一郎は持ち株全てをトヨタへ売却します。

昭和21年39歳で本田技術研究所を設立し自転車用補助動力2ストロークエンジンを開発しバイクモーターを完成させます。昭和23年本田技研工業㈱を設立し二輪車の研究を始めると、旧中島飛行機の25万人の失業者の中から平和産業である自動車産業へ転職希望する設計技術者や熟練工が続々とホンダへ入社します。昭和25年朝鮮戦争動乱が勃発するとホンダは販売台数日本一のオートバイメーカーとなり、昭和29年英・マン島TTへ出場宣言します。昭和34年の初参加で団体優勝し、昭和36年に125ccと250ccで初優勝します。勢いに乗る宗一郎は四輪車参入(昭和38年軽トラックT360、小型スポーツカーS500発売)前の昭和37年「国産軽飛行機の設計を募集」の新聞広告を掲載します。昭和38年この広告で東京大学工学部航空学科の吉野浩行(1998年五代目社長)が入社しますが、航空機開発の設備はなにもなくガスタービン研究所の開発担当となります。昭和39年1月マン島レースで優勝すると、次はF1レース出場を宣言し昭和40年10月F1・メキシコGPで初優勝しホンダのエンジン技術と車体技術が世界から高く評価されます。1970年(昭和45年)排ガス浄化対策の米・マスキー法は1975年(昭和50年)以降の未対策車の販売は認めないという規制で、この規制をいち早くクリアするのが1973年(昭和48年)ホンダシビックです。1979年オハイオ州に日本初の二輪車工場、1982年にはトヨタ、日産に先駆けて四輪車工場を操業します。

過激化する日米貿易摩擦の再来を避けるため、極秘に航空機の機体とジェットエンジンの研究開発に着手するのは1986年になります。ジェットエンジンの開発ではムキ出しのエンジン後部に設置するプロペラがそれぞれ逆回転する「二重反転式」を選びますが、三機種の試作品ではエンジンが爆発するなど散々な結果となります。1991年開発メンバーの濱田理ら四人は上司に内緒で、通常のターボファン(ジェット)エンジン・HFX01の開発を始めます。

1995年米国のモヘベ砂漠にある飛行場の試験飛行でHFX01エンジン開発に成功しますがコスト面では競争力に劣ります。

1984年東京大学工学部航空学科卒の藤野道格は、当時の航空機産業には興味を感じなくクルマの技術屋になろうとホンダに入社します。藤野は入社三年目の1986年にジェットエンジンとジェット機を開発する、僅か五人のプロジェクトに参加します。需要の有るところで生産するのを社是とするホンダは、米・ミシシピー州立大のラスペット研究所と提携しホンダ研究所を作ります。五人は最先端の航空技術と最新の理論を学び、手作りの軽飛行機を現場主義で初歩から学びます。既存の機体を改造する実験機MH-01の飛行試験でデータを集め1989年二機目のMH-02の開発が始まります。ホンダの開発するジェットエンジンは間に合わずP&W社製ターボファンエンジンを採用し1993年初飛行、1995年―1996年に70時間の飛行実験を行いますが、本田のラスペット研究所は閉鎖され藤野らは帰国します。

大型ジェット旅客機は翼の下側にエンジンが付き、ビジネスジェット機は胴体に直接エンジンが付きます。1997年藤野は翼とエンジンは一体として考え、MH-02では翼の上にエンジンを置くことで空気抵抗が下がり燃費は12-17%向上、さらにキャビンを広くして静かになることを発見します。さらに藤野は機体のデザインに「美しさ」を追求します。ハワイの免税店で見た「サルバトーレ・フェラガモのハイヒール」の尖ったつま先から かかとにかけて鋭く流れる ノーズが尖った戦闘機を連想させるデザインを描きます。このデザインは2012年米航空宇宙学会のエアクラフト・デザイン・アワードを受賞します。

1998年本田技研社長・福井威夫が、ホンダジェットは初飛行までやるべきと宣言すると、藤野・機体チームと藁谷・エンジンチームはホンダジェット実現への協議を始めます。1999年から藁谷がリーダーとなり新設計エンジン・二軸のターボファンエンジンHF118の開発が始まります。2002年試作エンジン完成、米・小型ジェット機セスナの片側にHF118エンジンを搭載する試験飛行は成功します。2003年福井がホンダの六代目社長に就任するとあらためてホンダジェット開発を支持し、2003年12月米ノースカロライナ州ホンダエアクラフトカンパニー本社工場でHF118を搭載するホンダジェットの初飛行に成功します。初飛行の成功で2004年GE(ゼネラルエレクトリックの航空機エンジン製造部門)は、ホンダと小型ジェットエンジンの共同事業化(対等出資)に調印し社名をGE Hondaエアロ・エンジンズとします。2006年ホンダは航空機の事業化を発表し、ホンダエアクラフトカンパニー(社長藤野道格)を設立します。

GE Hondaエアロ・エンジンズは2013年FAA(米国連邦航空局)から製造認定を取得しエンジン単体の量産販売が始まります。ホンダエアクラフトの藤野社長は2012年Honda Jetの生産を開始し2015年3月FAAから型式証明書を取得します。4月から世界十三カ国を訪れるワールドツアーを開催し4月に羽田空港に着陸し全国五空港で一般公開されます。大富豪から百機以上の予約がある全長12.99m、全高4.54m、巡航速度778㎞/時のHonda Jet 1号機は2015年12月から450万US㌦で納入開始されます。

機体とエンジンの両方を手掛けるのは世界初です。本田宗一郎は退職後に軽飛行機を自ら操縦して全国の工場を視察しており、Honda Jetで宗一郎の夢が叶います。