【第509号】令和5年5月

≪  習近平国家主席が願う祖国統一  台湾  ≫

台湾は国土面積が九州の85%で漢民族2350万人が住む島国ですが、数%の原住民は数千年前に南太平洋から移住しております。大航海時代の1544年、ポルトガル船が沖から台湾島を眺めて「麗しき島」と称賛しております。1644年漢民族が明王朝を制し中国・清王朝を樹立すると、鄭成功は清王朝に抵抗し1661年オランダ統治下の台湾を攻略して鄭政権が誕生します。 1683年大陸の清王朝が台湾を攻略し合併しますが、反清王朝派は台湾で土地を開墾し砂糖・塩田の事業を興します。1895年日清戦争で日本が勝利、下関条約で台湾は日本へ割譲され1945年までの50年間は日本の統治下にあります。 1912年中国大陸では孫文により中華民国が設立されて清王朝は滅亡します。 1945年第二次大戦で日本が降伏すると台湾統治は中華民国に復帰します。しかし戦後の中国大陸では毛沢東の中国共産党と中華民国との内戦が続きます。 1949年毛沢東により中華人民共和国が北京で建国され、蒋介石の中華民国は台湾へ追放されます。1952年日華平和条約に調印して日本と蒋介石の台湾の国交が始まります。 十九世紀に列強の執る植民地政策には、スペインの南米植民地での侵略型、英国のインドの綿花を本国で高級品に加工し販売する搾取型、日本の台湾で行う投資経営型の三パターンがあり、日本が執った台湾での植民地政策は戦後の台湾を見事に発展させます。

日本は台湾を経済上利益の獲得と、南進への基地を目的として莫大な財力とインフラ整備の為優秀な人材を派遣しました。占領後日本政府は、中国大陸に帰りたい人は帰ってもいい、残りたい人は残ってもいいと二年間の余裕を与えますが、大半の台湾人は残るという選択をします。台湾統治当初は反日ゲリラで混乱しその鎮圧に明け暮れしますが1898年四代目児玉台湾総督は医学博士・後藤新平を民生局長に迎えると、後藤は台湾には台湾の法がある「郷に入っては郷に従え」と、台湾国土が豊かになる産業振興に勤めます。ゲリラには過去を咎めずインフラ整備の土木工事に従事させ、利益を与えて治安は一挙によくなります。産業振興のためアジア最大の烏山頭ダムを完成させ、不毛の土地は穀物地帯へ変わり二期作のコメ農業の発展に寄与します。当時の台湾にはアヘンの吸引癖がありましたが、後藤は罰するのではなく吸引ライセンスを与え、新たなライセンスは出さないという自然消滅策で撲滅に成功します。マラリア、赤痢、チフスなど伝染病が流行し、平均寿命は三十歳未満の台湾に衛生環境と医療の徹底的改善に着手します。一般病院、伝染病、肺病、精神病、らい病などの医療設備は日本人のいない辺鄙なところにも完備しています。 米国から新渡戸稲造を呼び、製糖事業や樟脳の生産に力を注ぐと、製糖は世界レベルに達し台湾の主幹産業となります。

学校は日本語と台湾語の義務教育で、終戦前の就学率は80%で先生は皆日本から来ていました。終戦前の台湾の平均国民所得は90米ドル/年で、日本は100米ドル/年、中国大陸は30米ドル/年程度でした。昭和20年8月15日 日本は敗戦となると戦後の台湾は国民党・蒋介石による北京語教育に統一されます。中華民国の台湾経済を大陸(外省人)の蒋介石が統治すると、台湾在住民(本省人)は物資欠乏、失業、インフレなど深刻な状況が続きます。

政府は農業経済(砂糖、バナナ、コメなど)から工業経済、輸出経済へ転換を計り、1966年高雄に輸出加工区が設置されます。外資を導入して日本と米国との関係を深め、外資により優秀で安価な労働力を活用すると米国が一番の貿易相手国となります。 1971年国連の議席が台湾から毛沢東の中華人民共和国に入れ替わると、1972年日本と中華人民共和国(中国)との国交正常化により台湾と日本の交易は途絶えます。

しかしこの時期台湾の輸出入は紡績品、電気機械と工具、合板木製品の大幅な黒字に転換し1975年蒋介石死去後には長男・蒋経国が中華民国二代目総督を引継ぎます。1975年から1979年のオイルショックで世界経済が動揺するなか、政府は投資総額70億米㌦を打ち上げ、南北高速道路、鉄道電化、中正国際空港、原子力発電など大型インフラ建設と鉄鋼、造船、自動車など大規模な重化学工業などを推進します。国連脱退で先進国との国交は無くなりますが駐外事務局を設置し、世界にちらばる三千万人の華僑(中国人及び子孫の商人)の働きによって米国、日本、カナダ、西欧州諸国が貿易のパートナーとなります。

新興工業経済地域の台湾、韓国、香港、シンガポールの四地域はNIESとして一躍世界的に注目されます。なかでも台湾は1970年代から貿易収支を黒字化させており、比較的安定してインフレなき高度成長を成しとげ、失業率は問題なく低く貧富の差は圧倒的に小さく、外貨保有高が世界最高水準であり、1970年代のGNP成長率は平均9.8%の台湾はNIESの優等生と一躍世界的に注目されます。1980年台湾北部・新竹市に「科学工業園区」が設置されコンピューターや通信、IC、精密機械などハイテク企業を集積させると台湾のシリコンバレーとして注目されます。1992年コンパックがパソコンの大幅値下げに踏み切ると、世界で最も安く作れ、膨大な需要に太刀打ちできるのは台湾のみとなるビックチャンスの到来です。

1987年科学工業園区に、TSMC(Taiwan Semiconductor Manufacturing Company) が設立されると、半導体素子の製造販売で世界シェア90%を超えます。2022年12月TSMCの最大顧客のアップルCEOティム・クックは、九州・熊本のソニーグループの半導体工場を訪れ、この工場に隣接する工業団地にTSMCの工場進出を決めます。アップル・ソニー・TSMCの強い繋がりに、日本政府は新工場投資総額1兆円の半額を補助すると発表しました。

蒋経国死後の1996年中華民国初の台湾総統直接選挙により、台湾生まれの本省人・李登輝(国民党)が就任します。李登輝総統は中華人民共和国を認め、中華民国を「中華民国台湾」と呼びます。また総統任期を1期4年・連続2期の制限を付し独裁政権を防止します。

1996年李登輝の総統直接選挙まえに、中国による台湾海峡の軍事演習で威嚇しますが、台湾の経済的ダメージは全くありません。この頃にはTSMC・台湾積体電路製造の生産基地は、台湾からメイドイン中国へ急激にシフトされ、中国大陸やアジア諸国の安い労働力により現地から直接完成品を世界へ輸出する構造へ転換し世界シェアは9割を超えます。

習近平主席は香港を中華人民共和国香港特別行政区とした様に、台湾を特別行政区「中国・台北」にする強い意向を持ちます。2024年1月の国民投票による台湾総統選挙では与党・民進党と親中派野党・国民党の争いとなります。親中派・国民党による「赤い台湾」の実現と、TSMCの中国との関連を米国・日本など民主主義国は警戒しております。