【第499号】令和4年7月

≪ DAIKIN /ダイキン工業 創業者 山田 晃 ( 1884-1973 ) ≫

日本と米国、欧州の空調の仕組みは全く違う発展の道を辿ってきました。米国ではセントラル空調、またはフォースドエアシステムと呼ばれるダクト空調が主流です。建物の一か所に暖房装置または冷房装置を設置し、温風や蒸気または冷気をダクトにより各部屋へ送る仕組みです。

この仕組みは比較的に新しい建物に採用されており、古い建物の残る地域ではウインドウ式「窓枠にエアコン設置」のエアコンが多く使われます。欧州では強制的に部屋を冷やすことはあまり好まれなく、暑ければ窓を開けて風を通し日除けを設置してエアコンは殆ど普及していません。

日本では局所冷房システム、人のいる処だけを温めたり冷やしたり、部屋毎に設置するエアコンが普及しました。近年は地球環境意識の高揚から必要な場所だけに限定して、温度管理するダクトレス式エアコンの普及が進んでおります。

明治17年山口県の毛利家家臣・松田隆三の次男に誕生。明治40年福岡県立小倉工業高・機械科卒業、志願兵として山口歩兵隊に入営します。大正元年山田家の婿養子になります。大正8年神戸製鋼所に入社、大正12年中島飛行機製作所からエンジン冷却用ラジエーターチューブの製作を受注します。製作コストが2倍で5千円の赤字となり山田の責任となります。 大正13年山田晃が大阪金属工業所を創業し、飛行機用ラジエーターチューブの生産を始めます。

昭和5年米・GMはフロンガスには毒性・腐食性・引火性・爆発性はなく冷媒ガスとして優れていると発表します。

【 地球環境保護の1987年モントリオール議定書では、地球を覆うオゾン層をフロンが破壊し、その穴から紫外線が侵入して人や動物に被害をもたらすのでフロンを規制します。 】

米国海軍はフロンガスを潜水艦の冷凍冷房装置に採用すると、この情報が日本海軍から山田晃に伝えられ、昭和8年大阪市西成区の今宮工場でフロンの研究が始まります。昭和9年試作品が完成し南海鉄道で日本初の冷房電車が誕生し、昭和9年大阪金属工業㈱を創立します。戦後の昭和20年12月独自に開発し米国へ特許申請をしたフロン技術で、米国進駐軍から注文を受け、昭和21年4月からフロン製造を再開します。

昭和26年当時特許を所有していた米・デュポン社との間で技術援助契約を結び、昭和32年まで日本国内でフロンの独占製造販売権を得ます。パッケージエアコンは昭和26年から三菱電機、日立製作所、新三菱重工と相次ぎ発売され、フロンの特性に関するユーザーの認識の高まりから、昭和28年電気冷蔵庫製造各社も、冷媒を従来のメチルクロライドからフロンに切替えフロンの需要は急増します。

パッケージエアコン各社は全国の電話局の自動交換機用エアコンがターゲットでしたが大阪金属は昭和28年福岡電話中継局に納入、以来電電公社エアコンの70%のシェアを占めます。その他銀行、料亭、パチンコ店、などへ納入し昭和33年エアコンの売上は冷凍機部門の50%を超えます。

昭和38年大阪金属工業㈱からダイキン工業㈱へ商号変更します。昭和47年に欧州現地法人「ダイキンヨーロッパ」を設立し、その後アジア、オセアニア、北米、中南米、に生産販売拠点を設け、150カ国に事業展開する空調の世界シェア№1の企業となります。

2010年空調事業の売上は米・キャリア社を抜き世界一位、フッ素化学製品でも米・デュポン社に次いで世界二位、換気事業やフィルタ事業においても世界一位のシェアを誇ります。海外売上比率は7割、全従業員の8割が日本国外で働きます。

フッ素はあらゆる元素と反応し多様な「フッ素化合物」を作ります。化学的に安定し、熱に強く、薬品や溶剤に侵されにくく、水や油をはじき、滑りやすいという優れた特性を発揮します。これらの特性からアイロン、フライパンなど家庭用品から自動車の燃料ホース、建築物の外装塗装剤、エアコンの代替フロンの冷媒など多岐多様と幅広く利用され、省エネ省資源に貢献する物質として期待されます。

沖縄のゴルフの歴史は、1948年(昭和23年)米軍の保養施設「泡瀬メドースゴルフ倶楽部」から始まります。開場当時のグリーンの表面は砂、ホールは空き缶です。米軍の施設でしたが基地に勤務する沖縄の人もプレイ出来ました。1965年には沖縄初の民間ゴルフコースが一般営業します。本土のゴルフと決定的に違うのは、身近なレクレーションとして発展したことです。米国的な楽しみ方、手軽な料金、誰でも楽しめる多様なコースが愛好者を増やしていきました。18ホールを一気に回るスループレイ方式が沖縄ゴルフの特徴で、ゴルフに対するスポーツ志向を育みました。沖縄のゴルフ場で子供達の姿が珍しくありません。小学校のゴルフ授業や、年会費500円で夕方から無料でゴルフコースのプレイが出来、ジュニア選手にとって恵まれた環境が整っております。

1983年青木功が日本人初のPGAソニーオープン・ハワイで優勝、1987年岡本綾子が米・ツアー賞金女王となると、プロゴルフは週末の午後にTV中継される人気番組となります。1988年日本女子プロゴルフ大会が、琉球ゴルフ倶楽部で「第一回 ダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメント」を開催します。この頃の沖縄はバブル経済に沸く本土の経済事情と大きくかけ離れており、沖縄への観光客は240万人/年で、沖縄の認知度は現在とは全く違う状況でした。(2019年には観光客1千万人/年を超えます。)

前年の1987年琉球放送・小禄社長が「どうにかして沖縄を本土に発信したい」と女子ゴルフトーナメントに目を向けます。親交のあった日本興業銀行・中山頭取を介して、ダイキン工業・山田稔社長にスポンサーを要請します。中山氏は「やるからには財界トップを沖縄に集めよう」と主催者が取引先を招待するという、プロアマ選を開催します。第一回の開幕前日プロアマ選(女子プロ1名+アマチュア3名)には、東京を中心に幅広い人脈を持つ興銀・中山氏、大阪は本社ダイキンの山田氏、琉球放送・小禄氏が沖縄県から財界人を集めます。

ソニー創業者・井深大、日本IBM椎名武雄ら100人が集まりますが、本土から来た財界人の中で沖縄訪問暦のある人は三人だけでした。1990年日本興業銀行・中山素平の提案で、本土の財界と沖縄財界の交流の場として沖縄懇談会が設けられます。

1985年沖縄・国頭郡で生まれる宮里藍は、二人の兄と共に父からゴルフを教わります。2004年東北高卒業式を終えた3月5日開催第17回ダイキンオーキッドでプロ初優勝すると、日本中の小学生が藍ちゃんに憧れゴルフを始めます。沖縄出身・新垣比菜が小学6年の2011年ダイキンオープンにアマチュア資格で出場して現在の女子ゴルフブームの到来となります。毎年3月開催ダイキンオープンで日本女子ゴルフのシーズンが開幕します。