【第495号】令和4年3月

≪ スエズ運河 ・ パナマ運河 ≫

シルクロードは中国の洛陽から欧州のローマへという説がありますが、東洋と西洋をつなぐ陸の交易路です。紀元前2世紀から18世紀までの間、経済、文化、政治、宗教において互いの社会に影響を与えます。1271年イタリアのマルコ・ポーロはシルクロードで中央アジアから中国を旅して「東方見聞録」を出版し、ジパング(日本)を黄金の国と紹介します。東インド諸島やインドの香辛料や中国を紹介し後の大航海時代に大きな影響を与えます。

14世紀にはポルトガルがアフリカ西沿岸に探検隊を派遣し、大航海時代の口火を切ります。

1447年アフリカ西沿岸から採掘される金を本国へ持ち帰り、クルザード金貨を鋳造します。1488年にアフリカ大陸南端の喜望峰に辿り着くと、1494年スペインとポルトガルの間で、トリデシリャス条約を結び、西アフリカのセネガル沖の西経46度37分の子午線の、東側の新領土をポルトガルに西側がスペインに属することを決めます。

1498年ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインドのカルカッタに到着します。1492年スペインの援助を受けるコロンブスは、西回りでインドへ到達出来ると大西洋を横断し、カリブ海のアメリカ大陸を発見します。1500年ポルトガルのカブラルはインド遠征航海で喜望峰に向いますが、大きく西に膨らみ南アメリカ大陸のブラジルを発見します。1543年には中国明へ向うポルトガル船が九州の種子島に漂着し日本への航路を発見します。

ポルトガルはオランダやイギリスの先陣を切って喜望峰経由でインド洋に進出し、香料・胡椒・綿織物を物産のないポルトガルは金や銀と交換し、アフリカとアジアの貿易を独占します。

イギリスは1600年インドに香辛料の輸入目的の英国東インド会社を設立、1602年オランダも蘭国東インド会社を設立します。1612年徳川幕府はキリスト教禁止令を出し1639年ポルトガル(カトリック教)船の入国禁止の鎖国政策をとりますがオランダ(プロテスタント教)との交易は続きます。1630年から1660年にイギリスとオランダが、ポルトガルのインド貿易に割込むとポルトガルは衰退します。西ヨーロッパは旧勢力のスペイン、ポルトガルと新興勢力のオランダ、イギリス、フランスが互角の争いをする時代となります。

多くの航海者によるアメリカ大陸の植民地化が進みますが、15‐16世紀の新大陸で必要とされる黒人奴隷の独占権はポルトガルでした。やがてオランダ、フランス、イギリス、が参加し、イギリスが奴隷貿易を独占します。

1643年以来ニューイングランドの船団が新大陸に渡り、イギリスは1664年第二次英蘭戦争でオランダからニュ―ネーデルラントを奪い、ニューヨークに改名します。1775年イギリスの植民地であったアメリカ移住民は独立戦争を起し1776年独立宣言が採択されます。独立を達成したアメリカ合衆国政府は東部から西部の太平洋沿岸へ向けて領土を拡大します。新大陸に自由な土地が有る、という噂がヨーロッパ中に広がり入植者を惹きつけます。自由な土地とは先住民・インディアンの土地ですが、先住民を殺戮して土地を奪い、アフリカ大陸の黒人奴隷によって綿花、タバコ、コメが栽培されます。

スエズ運河は地中海と紅海を南北に結ぶ全長160㎞の運河です。北米大陸のパナマ運河はカリブ海と太平洋を南北に結ぶ全長80㎞の閘門式運河です。大航海時代にはアフリカ大陸南端の喜望峰と、南米大陸南端のホーン岬を経由し、輸送ルートを格段に短縮しました。

1830年スエズ運河建設に先立ち、紅海海面と地中海の海面差はなく運河建設は可能という報告者が出されます。1854年フランスのレセップスはエジプト総督からスエズ運河建設利権を得て、1858年スエズ運河会社により建設が始まり1869年開通します。

スエズ運河はエジプト政府の所有物ですが、フランスやイギリスの株主が運営しておりました。1956年エジプトのナーセルが運河を国有化宣言すると、運河を巡ってエジプトとイスラエル、イギリス、フランスの第二次中東戦争がおこり半年間は運河の閉鎖を余儀なくされます、エジプトの国有化となります。