【第491号】令和3年11月

≪ 明治製糖 と 森永西洋菓子製造所 ≫

八代将軍・徳川吉宗がインドから白牛を買い入れて日本の酪農が始まります。1728年外国産軍馬の輸入と共にゼブー種(夏は白毛、冬はグレー)三頭(オス1頭、メス2頭)を千葉県南房総の幕府直轄の牧場で繁殖させます。バターの様な乳製品「白牛酪=搾った牛乳に砂糖を加えて煮詰めて乾燥する」は滋養強壮や解熱用の薬として将軍家に献上されます。1700年代終わりには牛乳と共に庶民の口にも入ります。明治に入ると明治3年(1870年)東京・芝に乳牛の牛乳搾取所が作られ、ブリキ缶入り180ccが4銭で販売されます。明治新政府は北海道の開拓に酪農を取入れ、明治22年米国から現在の乳牛・ホルスタイン種(白黒まだら模様)が輸入されます。牛乳の消費拡大により生乳のままでは保存が出来なくなり、明治26年にはバターや練乳(コンデンスミルク)の製造が始まります。明治27年の日清戦争では兵士や負傷兵の栄養剤として牛乳を飲むようになり牛乳の普及は急拡大します。

明治新政府は北海道開拓に甜菜(ビート大根)で砂糖を作ることを計画、明治23年札幌製糖を創業します。現在の苗穂・サッポロビール園の煉瓦建てが工場となり近隣農家から甜菜を集荷しますが、甜菜の生産高が上がらず明治29年操業を中止します。この工場の跡地は明治38年札幌麦酒(現・サッポロビール園)の工場となります。

日清戦争の勝利で台湾が日本の領土になると、明治28年明治政府は台湾総督府を設けて台湾の近代化に努めます。明治31年新渡戸稲造を招聘し製糖奨励法を作ります。新渡戸は札幌農学校の教授を辞職し台湾全島を視察、台湾の殖産興業の要は製糖業にあると確信します。新渡戸はサトウキビの品種を入れ替え、収穫時期をずらすことで製糖工場が通年稼働する工夫をします。明治35年三井物産の台湾製糖、明治36年台湾人による塩水港製糖所、明治39年明治製糖、大日本製糖が設立します。明治35年の砂糖生産高5万5千㌧は昭和11年には100万㌧を超えるまでに成長します。また明治29年に操業中止した札幌製糖の機械一式は塩水港製糖所に移設されます。

明治製糖㈱の社長・相馬半治は東京高等工業学校の教授でしたが、明治37年台湾総督府製糖局技師を兼務、冬期間は台湾の製糖工場で技術指導を行います。明治39年明治製糖が設立され相馬が専務に就任すると東京高等工業高校を退職します。 大正4年相馬が社長に就任しますが、第一次世界大戦が勃発すると欧州各国から東南アジアへ輸出されていた菓子類が全て途絶えます。当時の日本の大手菓子メーカーは森永製菓、東洋製菓ぐらいで、日本の消費は賄えません。相馬は砂糖の消費先として製菓会社設立を目指し大正5年大正製菓を設立します。しかしキャラメル。ビスケットの製造で東京製菓㈱に先を越され,やむなく相馬は大正製菓と東京製菓を合併しますが、東京菓子の業績は好転しません。大正12年関東大震災後、12月の株主総会で自ら会長職に就き先頭にたち改革を断行します。大正13年欧州各国を視察し東京製菓を明治製菓に改称。大正15年ドイツから製造機を輸入しドイツ人技師の指導で「明治チョコレート」が誕生します。

森永太一郎は慶應元年に佐賀県の伊万里焼の陶器問屋に生まれます。6歳で父が亡くなると親戚の家を転々とし、ようやく伯父に引き取られて商人の心構えを教わります。

本屋の住込み店員や野菜の行商人、伊万里焼の問屋で奉公し19歳で叔父の出資する横浜の

伊万里焼の有田屋横浜営業所で働きます。 20歳で結婚し九谷焼を外国商館に販売する陶器問屋で働きますが、この店が倒産します。債権者への返済の為に店の在庫品を海外で販売しようと、明治21年(24歳)妻子を残して渡米します。サンフランシスコで陶器の販売を試みますが失敗、オークションで売り払い日本へ送金します。自身は無料の日本人向けミッション教会に住み、皿洗いなどで糊口を凌ぎます。日本では誰も手掛けて居ない菓子工場を探してオークランドに移りますが明治23年日本に帰国します。しかし三月後に再度渡米し人種差別に悩みながら、明治28年(31歳)オークランドのキャンディー工場に掃除係として入社します。ここで五年間、多くの西洋菓子の製法を学び帰国を決意します。キャンディー工場で世話になった夫妻から「小売をせず、卸だけやれば家賃の安い辺鄙なところでも商買は出来る。」とアドバイスを受け明治32年(35歳)帰国します。帰国後東京・赤坂に森永西洋菓子製造所を設立、当時「天使の食べ物」と呼ばれた「マシュマロ」を製造します。この年森永は「おいしく たのしく すこやかに」のエンゼル・マークの商標登録をしております。

松崎半三郎は貿易会社に勤めてから自ら貿易商社を設立、オルガン、ピアノの部品や洋菓子の原料を輸入します。森永洋菓子製造所にも原材料を納品し森永太一郎と面識を得ます。森永は東京の菓子業界では誰でも知っている人物です。菓子業を近代的産業にすべきという夢を実現するには有能なパートナーが必要であると、出入りする九歳年下の松崎の営業力を高く評価しておりました。幾度とない森永の誘いに松崎はついに折れ、明治38年入社します。その際に松崎は三つの提案 ①森永さんは製造に専念 私は営業を担当 ②個人商店では限度があるので株式会社組織とする ③必要な人は人物本位で採用する を申し出て二人三脚経営が始まります。

明治43年株式会社森永商店へ改組、松崎は取締役支配人となります。近代化にあたっては、菓子製造の機械化に取組み質の高い菓子を大量生産して販売網を組織化し、先駆的な広告や独創的なキャンペーンを打ちながら事業規模を拡大して大手製菓会社に成長させます。大正元年森永製菓㈱に改称、大正9年には従業員1300人を超え、翌年には東洋一のオフイスビルと称された「丸の内ビルディング」に本社を移します。

大正12年9月1日の関東大震災直後の森永の本社や工場の被害はごく僅かであり、森永社長と松崎専務は翌日朝6時より、日比谷公園と芝公園でビスケットとキャラメル6万袋を配布し翌日からミルクの無料提供も実施します。7日には新聞広告で「森永ミルク差し上げます」と告知します。震災直後の1週間の救援活動の内容はミルクの接待30万人、キャラメルなど菓子6万袋、米87石8斗(約13㌧)、缶入り練乳1万5千缶に達し以降も日比谷公園。芝公園でドーナッツを配布します。

のちに「森永の松崎か、松崎の森永か。森永は二人にして一人である。」と言われ 森永太一郎は 「 商売は正直でなければ栄えません。」と語ります。