【第489号】令和3年9月

  ≪ 無印良品・MUJI   ㈱良品計画 ≫

1970年代に仏・大手スーパー・カルフールが食品や日用品のノーブランド商品を発売しブームとなります。過剰な装飾を排した商品を安価で販売し消費者の支持を集めると米国でも広がります。1978年いち早くダイエーがノーブランドで安価な食品や生活物資を発売するとヨーカ堂も続きます。

1980年堤清二は西欧の高級ブランド販売で急成長する西武百貨店のブランド至上主義は早晩行き詰まると予感しておりました。1980年安かろう・悪かろうのイメージを脱却しなければ消費者に飽きられると、ブランドを真っ向から否定する「無印良品」を発売します。

食品が31アイテム、家庭用品9アイテムの西友のPB(プライベートブランド)「無印良品」は西友、西武百貨店、ファミリーマートで発売されます。パッケージに何故安いのかの理由を「素材の選択」「工程の点検」「包装の簡素化」と明記、無印良品の独自のコンセプトを全面に打ち出します。

無印食品は消費者へ正直に食品の味や品質など本質的な部分は手を抜いていない、ノーブランドだけど品質は一流、というイメージを発信します。三年目の1983年に欧州の高級ブランドが並ぶ青山の一等地に、洋服のブティックのようなセンスの良い店構えの独立路面店「無印良品」を開店します。アンチブランド・無印良品をブランドの街青山に出すのは清二のファッションへの挑発です。翌1984年の西武百貨店銀座・有楽町の出店に際し、1階には高級化粧品や高級ブランドのバックを並べるのが常識ですが清二は無印良品を入れます。

日本の老舗百貨店では問屋やアパレルメーカーに依存して、売れ残り品をいつでも返品できる商法を続けておりましたが、1995年無印家電の販売計画(SPA・製造小売)がなされ、製造委託メーカーはシャープとします。冷蔵庫、洗濯機、電子レンジなど8品目について単身者を狙いシンプルなデザイン、単純な機能、リーズナブルな価格の商品の企画、売価、年間販売台数と販売台数をシャープに約束します。この時代は売り手よりメーカーが圧倒的に強く、自社仕様のPB商品を作ることは極めてハードルの高いものでしたが、契約通り1998年から2000年まで無印良品の電家製品が発売されます。

ユニクロは1997年ころからPB比率を高め米・衣料品小売店GAP(ギャップ)をモデルとしたSPA(製造小売業)へ転換します。バブル崩壊の資産デフレのなか1997年山内証券、北海道拓殖銀行、1998年日本長期銀行が経営破綻すると、セゾングループも2兆円もの金融負債に見舞われます。西友は保有するファミリーマートを伊藤忠商事へ、良品計画は機関投資家へ売却します。

現在ユニクロやニトリはSPA(製造小売業)で成長しておりますが、良品計画のSPAでは売れ残り商品の在庫処分を値引きしても過剰在庫となり経営課題となります。

2000年12月西友・木内政雄社長から松井忠三に声が掛かります。松井は2001年1月㈱良品計画の社長に就任し三期連続最高益を出します。松井は大学時代の1969年沖縄返還を求めて警視庁機動隊と衝突し勾留、卒業後唯一受かった西友ストアに入社します。1991年左遷され良品計画へ出向、1992年部長となり1999年良品計画専務取締役に就任しておりました。

新社長松井には経営危機の西友と西武百貨店の動向が気になり、再生は三年以内と決めます。過剰在庫、商品開発の劣化、海外店の不振と問題は山積みですが、社員の再生への意識が何より大切でした。ショック療法として売価100億円で原価38億円の長期在庫の衣料品を、社員自らが焼却炉へ運びます。負け構造から勝ち構造にしなければ、最大の原因は感性と属人的な経験主義が根を張るセゾンの社風であると気付きます。「セゾンの常識は良品計画の非常識」と内外で言い、スローガンは「経営の仕組みを変える進化と実効」とします。

突破口は自動発注の導入からです。売上高トップ10が店頭に並んでいないので、13カ月間のトレンドと直近2週間の販売実績による自動発注へ変えます。発注精度が高まると発注業務は接客時間に変わり、在庫が多ければ店頭販促により積極的に売り込みます。

2001年9月11日米同時テロの勃発、14日無印良品が数多く出店するマイカルが破綻し 売上金の回収が困難となり、良品計画の株価は急落します。2002年米・ウォルマートが西友を買収する中、松井社長は仕事のやり方を根本的に変えます。効率を倍に、コストを半分にしようと会議資料はA4一枚に、決済印を7-8個から最大3個にします。小売業を労働集約産業と考えるのでは進歩はない。売り場の負担軽減の為、物流センターでは店舗の陳列棚や商品カテゴリー毎に出荷し、配送業者にカギを渡して深夜に指定された売り場まで運んで貰います。渋滞の無い深夜なので物流企業からも喜ばれます。

さらにアウトレット店舗も廃止しますが、売れ残った商品の処分が出来ないという不満に、「ユニクロ、しまむらにアウトレット店はない。退路を断って売り切る仕組みを作ろう。」とトップダウンからボトムアップへ現場の知恵で業務改善します。やがて小集団活動の成果が出てきて、小集団から全体最適となる大きな仕組みが出来上がります。

2002年夏デザイナーの山本耀司さんから、「松井さん。欧米のブランドばかりに市場を奪われるのは悔しくないですか。逆にしません?。」 彼の言葉に共感し衣料品の開発チームを作り指導を依頼すると、翌年春から優れたデザインに手頃な価格の商品が並べられ彼の手がける衣料品は大ヒットします。2002年には社外取締役を導入し、効率経営や経営統合などの改善に取り組まれた先輩にお願いします。

しまむら・藤原秀次郎さんから「売り場を見て組織と数字に置き換えられないと経営者ではない。」と教わります。2003年再建が進み始めた頃、西友を買収した米国最大の小売業・ウォルマートのようなリーダーの人材育成策が作れないだろうかと考えます。私の西友時代に能力開発担当だったとき、強烈な縄張り意識で人材育成妨げられた経験があったからでした。世界の優良企業はすでに部分最適を全体最適にする施策を持っていました。同社からヒントを得て制度作りに乗出します。まず社員になった時に受ける適性検査を基に、素質と実績で5段階に分類しリーダーを選びます。直面する最も困難な仕事の責任者に選任すると、リーダーの大きく育つのが見えてきました。

会長時代に堤清二さんから、松井さんの良いとこは「鈍感力」(渡辺淳一著のベストセラー)と言われました。セゾン関係者からの反感を気にせず、良品計画に新たな社風を吹き込み、セゾンの常識は良品計画の非常識と社内外で言い続けてきたからこそ、再編にも巻込まれず、良品計画は自主独立できました。 「鈍感力」は堤清二さんのお褒めの言葉でした。