【第488号】令和3年8月

 ≪  吉野家 と 堤清二  ≫

明治32年日本橋にあった魚市場に牛丼の吉野家(個人商店)が誕生します。創業者・松田栄吉が大阪吉野出身から屋号を吉野家とします。関東大震災ご大正15年魚市場が日本橋から築地市場へ移転すると吉野家も築地場内へ移転します。

昭和27年24時間営業を開始、昭和33年松田瑞穂社長は牛丼屋の企業化を目指し株式会社吉野家を設立し「早い うまい」の牛丼単品店とします。昭和40年年商1億円を達成すると渥美俊一の教えを受けチェーン展開を始めます。渥美は1963年(昭和38)チェーンストア経営専門コンサルタントを設立、ダイエー・中内功、イトーヨーカ堂・伊藤雅俊、ジャスコ・岡田卓也、ニトリなど1969年には1000社を超えます。

毎年米国視察を行い米国の本格的なチエーンストア経営システムを日本に紹介し、流通革命・流通近代化の理論的指導者として戦後日本を代表する多くの経営者を育てます。

松田瑞穂はチェーン展開の構想を練り昭和43年2号店・新橋店を開店し、米国産牛肉を使用します。当時日本への輸出枠が限られていた為、米国産牛肉を直接買入れる目的に米国吉野家を設立します。石油ショックが重なり翌年、日本政府は牛肉の輸入を禁止すると、米国吉野家はデンバーに海外1号店をオープンします。国内の店舗は増え1977年100店から翌1978年200店を超えます。

しかし牛肉の輸入量が賄えなくなり、お客様の来店頻度を減らすため牛丼の値上げを決めます。急速な店舗展開と売上減少で1980年7月115億円の負債を抱え、会社更生法の適用を申請し倒産します。

安倍修仁は福岡の高校卒業後プロミュージシャンを目指し上京、バンド活動の傍ら吉野家で働き築地店で松田社長に徹底的にノウハウを叩きこまれます。1972年松田瑞穂社長に正社員採用され23歳で新宿東店の店長に抜擢されます。1977年九州地区本部長に就任し、米国吉野家チェーン店舗拡大の為に渡米しますが1980年の会社更生法申請で帰国します。

経営破綻した吉野家は1980年会社更生法の適用申請をすると、中内功のダイエーが支援に乗り出そうとします。当時のダイエー中内功社長と吉野家松田瑞穂社長は野武士集団のイメージが一緒で、ダイエーの支援に吉野家の社員はみな諸手を挙げての賛成です。セゾンによる吉野家支援に反対しスト決行騒動のなか31歳の安倍は松田瑞穂社長に直談します。

松田社長に「お前バカじゃないのか。そんなことで戦ってどうする。資本は常に安全で有利な方に流れる。だから資本がどうなろうと恐れる必要は全くない。」と諭されます。経営を執行する立場の者は、親会社がセゾンであろうがダイエーであろうが関係なく、とにかく事業を推進して事業価値を高める他はない。というのが松田社長の考え方でした。

1983年吉野家の更生法計画案が認可され堤清二が管財人に就任し、松田社長の言葉でストには至らずセゾングループの傘下にはいります。安倍修仁は更生計画の認可される1983年取締役本部長に就任し、転職を考える仲間に吉野家に残ってよかったとなると、説得します。

再建後の危機のたびに「単品経営だからリスク管理が出来ていない」と非難されます。

安倍修仁はそれは間違っている。単品だからこそ品質を極め、際立った実績を上げ続けます。お客様は市場の食のプロ、牛丼も好みの味や盛付けを求めます。つゆだく、ネギ抜き、大盛りなど十種類をお客さんの顔と好みを必死で覚えます。外食産業は一日平均500人で平均利益率5%ですが、吉野家は20席で一日1000人の来客を迎え15%の利益率をあげます。

単品経営はリスクテイクだが、独創性の高い絶対的な価値を生み出す。元社長松田の口癖「一つのことに一番になれ、一つのことを極めろ」の言葉通り、牛丼を極めようとすればする程、課題が鮮明になり改善へと向かいます。倒産後もその繰り返しが逆境から脱却への道を指し示してくれました。四年後の1987年に更生債務100億円を完済し更生手続きが終桔します。

会社更生完了の祝賀会で堤清二さんは「吉野家支援は周囲の反対を押し切って私が決めたことです。皆さんはセゾングループの人に引け目を感ずることはありません。」と挨拶されました。セゾングループの幹部達は、外食産業の吉野家を支援することは「セゾンのイメージダウン」と考えみな反対しておりましたが、堤清二は「セゾンの自己否定」のために吉野家再建に尽力したのです。吉野家再建でセゾングループはチェーンオペレーションのノウハウを獲得します。

セゾングループには以前から外食の基幹企業として、レストラン西武を持っていましたが、吉野家のチェーンオペレーションで店舗の形や商品構成、従業員の業務マニュアルを標準化して効率を高めることが出来ました。レストラン西武は元々西武百貨店の各店にある大衆食堂で、職人気質の調理人によるこだわりがチェーン全体の効率向上を阻んでおりました。1983年社長に就任する和田繁明も就任早々レストラン西武にチェーンオペレーション導入を始めます。

再建する吉野家は1988年セゾングループでレストラン西武のディー・アンド・シーと合併し、㈱吉野家ディー・アンド・シーに改称し和田社長は安倍修仁を社長に指名します。ディー・アンド・シーはダンキンドーナツを展開しており、安倍修仁は、セゾングループが日本展開する米国ドーナッツチェーンのダンキンドーナツのテコ入れ責任者となります。当時のダンキンドーナツチェーンでは品切れが目立つ一方売れない商品が並んでおります。安倍は決まった時間に商品を撤去し、売れ筋商品のデータベースから曜日や時間帯に合わせて商品を計画生産します。新鮮で美味しいドーナツが売場に並べる吉野家のチェーンオペレーション(外食産業のDNA)がセゾングループに導入されます。

堤清二はメーカーではなく小売業こそがサプライチェーンで主導権と価格決定権を持つという流通革命論には距離をおきます。流通産業はマージャル(資本の理論と人間の理論の境界線)にビジネスが存在し、人間の本質を理解した事業展開こそが重要と考えます。大量販売は画一的な大量消費を前提にしており、消費者の本当の豊かさや幸福にはつながらない。なぜなら地域性にどのように対応するかが課題となります。この効率優先を非難する考え方が西友を量販店から質販転に向かわせて品切れでも良い。という社風となります。

1992年バブル崩壊が顕著となり西武百貨店で架空取引が発覚、経営危機はピークに達すると西武レストランの和田社長を立て直しに迎え、吉野家は1998年ダンキンドーンツ事業から撤退 2000年東京証券取引所第一部に上場します。