【第487号】令和3年7月

 ≪  堤 清二 (1927年‐2013年) の セゾン (仏語 季節)  ≫

堤清二は西武グループ創業者・堤康次郎の異母兄弟(次男・清二、三男・義明)に生まれます。

父・康次郎は1920年箱根土地㈱を興し1944年国土計画工業㈱へ改称、西武鉄道グループの不動産会社・宅地開発と西武百貨店を興します。
1964年東京五輪前に康次郎が逝去、本業の鉄道、ホテル、不動産事業は堤義明に譲り、赤字部門の西武百貨店を清二が継承します。

堤義明は西武鉄道を母体とする不動産部門(コクド)を拡張し、プリンスホテルを核とするゴルフ・スキー場のレジャー施設を展開します。
1979年福岡の西鉄ライオンズを買収、埼玉に移転して西武ライオンズに改名します。

バブル経済最盛期の1986年にPL学園・清原が入団、元巨人の捕手・森祇晶監督で西武ライオンズは1994まで黄金時代を迎えます。

堤義明は2004年不祥事(証券取引法違反)から西武鉄道会長、西武ライオンズオーナーを辞任、2006年コクドはプリンスに吸収合併され解散します。
西武HD(ホールディングス)は西武鉄道、プリンスホテル、埼玉西武ライオンズの親会社となります。

七歳年上の清二は東京大学在学中に当時危険思想の共産主義に傾倒し、筆名・辻井喬で執筆しますが肺結核で療養すると清二を康次郎は秘書にします。
康次郎が衆議院議長に選出されると二十七歳の清二に池袋の西武百貨店を任せます。

堤清二の「セゾン流通グループ=西武百貨店・西友・ファミリーマート・パルコ・無印食品・ロフト・吉野家」は西武百貨店から始まります。

池袋の西武百貨店は戦後の闇市に隣接する武蔵野デパートを、1949年に康次郎が買収したもので木造二階建ての店舗です。
老舗呉服店の三越、松坂屋、高島屋、伊勢丹や私鉄系の阪急百貨店、東急百貨店に比べて見劣りする店舗でした。

清二は縁故採用を改め大卒社員の定期採用から始め、日本一を目指すと宣言します。
政治家・康次郎は日米関係強化の要請で1962年ロスアンゼルスに西武百貨店をオープンします。
清二は半年間現地企業を調査し流通業の未来を確信しますが、累積赤字で1964年ロスアンゼルス店を閉鎖します。
この時代は日本の百貨店は黄金時代を迎えますが、米国を見た清二は百貨店業界の凋落を感じ取ります。

パリに在住する清二の妹・邦子により、エルメスなど数多くの欧州高級ブランドを導入して西武百貨店の「格」を上げます。
1969年清二は団塊世代より下の若い消費者をターゲットに、渋谷パルコ1号店を誕生させ池袋と渋谷の新しい街を創ります。
イタリア語「パルコ・公園」は「ファッションビル」の新しい業態をスタートさせ、テナントからの賃料で利益を出す不動産業です。
パルコのテナント構成と建物空間が集客の魅力となり、渋谷パルコの最上階に前衛演劇・ミュージカルの西武劇場をオープンします。

1975年増築リニューアルにより西武池袋本店は巨艦店舗に生れ変ります。
清二は「西武は新しい街、街を歩くと美術館がある。公園がある。広場がある。」と最上階に西武美術館を置き、脱小売業で知的イメージを発信します。

のちに生活雑貨ロフト、書店リブロなど専門店チェーンをオープンし、ライフスタイル別商品構成店「ロアジール(余暇)館」では、衣・食・住から遊・休・知・美の新たなニーズ・専門店を目指します。

1980年代の西武百貨店は、欧州の高級ブランドを手広く展開しファッション等の情報発信力でも群を抜きます。
仏のエルメス、イブ・サンローラン、伊のアルマーニ、米のポロ・ラルフローレンの西武百貨店は、ファッションに強い伊勢丹と肩を並べ「セゾン文化」と呼ばれます。
西武池袋本店の年間売上高は日本橋・三越本店を抜き百貨店業界一位となります。

1984年西武の「格」を上げる為、清二は銀座へ進出し「有楽町マリオン」に西武有楽町店をオープンします。
売り場面積は12,850㎡と極めて小さな店舗ですが、清二は百貨店でもなく、量販店でもなく、生活全領域に対応する小売業の新しい形態、西武流通グループの情報発信基地とします。

各種ローン、抵当証券、生保・損保の金融商品、セゾンカードなどを扱うファイナンシャルサービスから国内外の別荘、住宅販売、映画・演劇チケットなどの非物販に力を注ぎ、オープン当日は28万人の人垣が有楽町マリオンを囲んだといわれます。
1987年西武百貨店の売上は三越を抜いて業界第一位となります。

清二から渋谷の東急ハンズより上等な店舗を、の一声で1987年西武渋谷店別館にロフト1号館を開業します。
ネジや釘類はハンズに全く敵わないと諦め、ロフトは東急ハンズが強みとする生活雑貨のDIY(日曜大工)よりも遊びの要素を重視します。

ロフトの開店は全国でも話題となり出店希望が相次ぎます。
計画される2号店は1990年大阪梅田にオープンしますが、駅から遠く商業エリアからも離れた最悪の場所と危惧されます。
しかし清二は魅力的な場所を作れば、周囲の街が再開発されると不安を一掃します。

1957年中内功が大阪旭区で主婦の店・ダイエーを創業、1972年小売業売上高日本一となります。

堤清二も1958年西武ストア1号店を土浦に開店、1963年西友ストアに改称し全国展開します。
ダイエーと西友は食品、衣料品、住居用品を販売する総合スーパーを事業の中心に据えますが経営思想には大きな違いが有りました。

ダイエーは米国流の効率最優先の安売り大量販売のチェーンオペレーションを採用しますが、堤清二は量販店でなく「質販店」を目指します。
婦人服の売り場に専門販売員を配置し対面販売を復活させ、仕入れも本部一括でなく店舗毎の仕入れが許されます。
物販のほか映画館と外食施設を備え、日本各地の地方銘産品を販売し、プライベートブランド(PB)「無印良品」を売りだします。

総合スーパー・イトーヨーカ堂が1974年江東区でセブンイレブン1号店を開店する前年の1973年西友はコンビニ1号店(ファミリーマート)を埼玉県に開業します。
ダイエーも1975年に子会社ローソン1号店を開店します。
コンビニエンス店は本部と加盟店(個人店主)の関係が重要視されます。
共存共栄で家族重視のファミリーマートは店舗の自由度が極めて高く、個人店主が新たに店舗を構えたければ本部は位置や条件に制約を付けず、店舗を拡張し企業経営者になれます。

しかしこの緩さは統率力の低さとなり規律の厳しいセブンイレブンに大差を付けられます。
1990年代のバブル崩壊後のセゾングループは2兆円を超える金融負債を抱え1998年西友の保有するファミリーマートの株式を伊藤忠商事に売却します。

日本の百貨店業界も長い不況から抜け出せず2000年そごうが民事再生法適用申請し倒産します。
西武百貨店はそごうと統合しミレミアムリテイリングを発足しますが2005年セブン&アイHLDGSの100%子会社となります。