【第481号】令和3年1月

≪  京都の老舗  任天堂  山内溥 (1927年‐2013年)  ≫ 

明治22年山内房治郎は京都で任天堂骨牌(かるた)・山内房治郎商店を創業、花札を製造し明治35年には日本初のトランプ製造を
始めます。

日本にカードゲームが現れるのは安土桃山時代に欧州の宣教師が鉄砲やキリスト教と共に持ち込んだといわれます。
花札は江戸時代には花札賭博という禁制品でしたが明治19年販売が解禁されます。

昭和4年山内積良が任天堂骨牌の二代目店主に就任、昭和22年京都市東山区に㈱丸福を設立します。
昭和24年山内積良が病で倒れると急遽創業者山内房治郎の曾孫に当たる山内溥(22歳)が、早稲田大学在学中ながら代表取締役に
就任し丸福かるた販売㈱に社名変更します。

溥(ヒロシ)は社長就任時に任天堂では山内家の者以外はいらないと排除し昭和25年任天堂かるた㈱に商号変更します。
アイデアマンの山内溥は昭和28年日本初のプラスチックトランプを発売します。

昭和34年ディズニートランプの発売時には、遊び方の説明書を入れてトランプを子供向けに定義し、全く新しい市場で任天堂ブランドを確立します。トランプブームに陰りがでる昭和39年任天堂は経営危機に陥ります。

昭和40年同志社大工学部電気工学部卒の横井軍平が入社、社内の設備機器の保守点検を任されます。
横井が暇つぶしに格子状で伸び縮みする自作のおもちゃで遊んでいるところを、溥社長はゲーム化し商品化せよと指示し、
物を掴める「ウルトラバンド」が大ヒットします。
ただちに開発課が設置され横井軍平は開発課で玩具開発に専念します。

昭和53年業務用ゲーム機「インベーダーゲーム」が喫茶店で大ヒットすると、任天堂はスペースフィーバーで参戦します。
溥社長は「娯楽業界ではソフトウェアを交流することが大事」と発言、
昭和55年(1980年)家庭用テレビゲーム機「ゲーム&ウオッチ」の大ヒットで累積赤字を完全返済しNYに米国任天堂を設立し1982年にシアトルへ移転します。

1983年ゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売、1985年ゲーム機用ソフト「スーパーマリオブラザーズ」を発売すると売上高はギネス世界記録に認定されます。

1989年横井軍平が次世代ゲーム機器「ゲームボーイ」を発売、同時にスーパーマリオランド、ベースボールなどのソフトを発売します。

山内溥は1992年経営危機にあるHAL研究所の岩田聡に眼をつけます。
岩田聡(1959年生)札幌出身、札幌南高卒後に東京工業大工学部情報工学科を卒業します。

大学1年の1979年コモドール社のホームコンピュータを購入、販売店の常連客となり多くのプログラミング愛好者と知合います。
在学中に㈱HAL研究所の設立に関わり、岩田はプログラミングに熱中し大学卒業後にそのままHAL研究所の正社員となります。

当時のHAL研究所の社員は5名ですがソフトウエア開発者がおらず岩田が第一号となります。
入社二年目の1983年任天堂から家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」が発売されると、強い関心を持つ岩田は任天堂京都本社に直接出向いて仕事の受注を申し出ます。
HAL㈱の岩田は任天堂からピンボール、ゴルフのファミコンソフトのプログラミングを受注し担当することになります。

任天堂の宮本茂とHALの岩田は1988年発売のファミコングランプリ・3Dホットラリーで初めて共同開発を行います。
1992年HAL研究所はゲーム事業の不振により経営危機で和議を申請、1993年3月取締役開発部長の岩田(34歳)が代表取締役に就任します。

岩田はHALの社長として優れた経営手腕を発揮、「星のカービィ」シリーズなどのヒット作が生まれ15億円の借金を6年で返済します。
社長就任当時の岩田は会社や仕事への不満を聞きとる目的で全社員との面談を実施します。
社員との対話を重ねることが組織運営力や勤務意識の向上につながると感じる岩田は、その後も半年に一度の面談を続けます。

岩田聡は2000年6月任天堂の山内溥に経営手腕を買われ任天堂に入社、取締役経営企画室長に就任します。
2001年5月米国でのゲーム機器見本市で、岩田は同年9月に発売を控えていた新型ゲーム機「ニンテンドーゲームキューブ」に関するプレゼンテーションを行います。

入社2年目の2002年5月、同族以外の岩田聡(42歳)は山内溥から指名を受け任天堂の社長に就任します。
創業家以外の社長就任に際し、山内溥は社長補佐のための集団指導体制を整備します。
経営方針は岩田聡、ゲームソフトは宮本茂、ゲームハードは竹田玄洋、経営統括は君島達巳の四人による合議指導体制とします。

2004年12月ゲーム人口の拡大を基本戦略とし、タッチパネルを搭載する二画面携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売、年末だけで150万台を売上げます。

2005年からミリオンセラーのソフトを多数発売、2006年リモコン型コントローラーで操作する家庭用ゲーム機「Wii」を発売します。
このWiiでは歴代のゲームソフトをダウンロード購入してプレイ出来る仕組みを導入します。

2014年岩田社長に胆管腫瘍が見つかりますが、手術後の2015年の株主総会でNintendo Switchを開発中と発表します。
しかし、2015年7月代表取締役在職中に亨年57歳で死去します。

宮本茂は1977年金沢美術工芸大を卒業、マスプロ製品をデザインする仕事に就きたいと任天堂・山内溥と直接面談します。
山内溥の「モノづくりの出来る社員が欲しい」という眼鏡に叶い入社がきまり、1979年から家庭用ゲーム機「ブロック崩し」などの本体デザインを手掛けます。
入社3年目の1980年任天堂の大量在庫の基板を活用した新しいゲームを作る会議で、横井軍平開発部長は宮本茂を抜擢します。

1981年完成する宮本の「ドンキーコング」は世界的ヒットとなり、この作品は人気の看板キャラクター「マリオ」のデビュー作となり横井の開発理念が宮本に受継がれます。

1996年宮本は情報開発本部情報開発部長に就任し2002年山内溥社長から岩田聡社長体制発足と同時に代表取締役専務に就任します。
岩田聡の急逝で2015年9月三菱東京UFJからスカウトされた君島達巳が新社長就任、同時に宮本はクリエイティブフェローに就任します。

2017年3月発売のNintendo Switchが大ヒットすると、2018年65歳になる君島社長から1994年入社の古川俊太郎(46歳)へ社長交代となります。

1992年MLBシアトルマリナーズが経営危機となると、1993年山内溥は「シアトルに米国任天堂(1982年設立)を置かせて頂いた恩がある。」と私財でマリナーズ運営会社の株を購入、筆頭株主となり大魔神・佐々木、イチローが活躍します。

社名任天堂の由来は 「運を天に任せる」「人事を尽くして天命を待つ」といいます。