【第480号】令和2年12月

 ≪  ベトナム戦争と日米同盟  ≫

太平洋戦争開戦前には欧州列強がアジアへ侵攻しております。英国はインド、ビルマ、マレー半島に居座り、蘭国はインドネシア、仏国はインドシナ、米国はフィリピンを占領して植民地化します。日本は中国東北部の満州へ侵攻しますが、1939年シベリア鉄道で南下するソ連軍とノモンハンで衝突し完敗します。これ以降日本は中国、インドシナへと南下侵攻戦線をとります。太平洋戦争末期の1945年4月米英連合国の沖縄上陸から、沖縄守備隊9万人全滅、民間人15万人の戦死で6月沖縄を占領します。7月米英中のポツダム宣言の降伏勧告を日本が無視すると、8月広島、長崎に原爆が落とされ15日日本は無条件降伏します。

1948年6月ソ連が西ベルリンへ向う道路・鉄道を全て封鎖すると、10月米トルーマン大統領はソ連への対抗上、日本の統治政策を経済破壊から経済復興へ180度転換します。

1949年ソ連の核実験に次いで1950年6月朝鮮戦争が勃発すると、米国内では日本を共産圏の防波堤とする要請が強まります。在日米軍7万5千人が朝鮮戦争に出兵すると、日本を再軍備させる為1950年8月同じ人数の国家警察予備隊(1954年7月常設軍隊は自衛隊へ改組)を創設させます。 1951年9月サンフランシスコ講和が署名され日本は占領から独立を許されますが、吉田茂首相は在日米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担継続の旧安保条約を呑まされます。この旧安保は米軍関係者の治外法権と、有事における日本の指揮権は米軍下に置かれ、米国は日本の防衛義務を負わないという不平等な条約でした。1952年4月対日平和条約が発効されると奄美、沖縄、宮古、八重島は、琉球政府に統括されて米国の管理下におかれます。1955年ベトナム戦争が始まると、1956年沖縄の米軍基地拡充のため住民から土地を接収し1958年沖縄の通貨は米㌦に切替えられます。

1957年石橋首相が肺炎で病床に伏せ2月に総辞職すると、岸信介外相が首相に就任します。岸首相はアイゼンハワー大統領と日米首脳会談を開くため、駐日大使に6月の訪米を伝えます。 4月の予備会議で日本の国民感情の対米批判 ①米国軍事政策への批判 ②旧日米安保条約における従属的地位への反感 ③沖縄・小笠原領土占領継続への怒り ④米国の輸入制限と日中貿易禁止 を述べて、旧安保条約を大幅改定し十年後の沖縄・小笠原の返還を訴えます。この予備会議で駐日大使はダレス国務長官に、日米首脳会談で真のパートナーシップを目指す為の根本的再調整の基礎つくりが出来なければ、日本は米国の利益に反する決定をするだろう。と進言します。

岸首相は5月の国防会議で国防の基本方針を決定、国力・国情に応じて自衛のため必要な限度において効率的な防衛力を斬新的に整備するとし、さらに東南アジア六カ国を訪問して旧日米安保改定への理解を求めます。 6月訪米の二日前岸首相は、第一次防衛力整備三カ年計画「三年間で陸・18万人、海・12万4千㌧、空・1300機の整備目標」を示します。

1957年6月のアイゼンハワー大統領と岸首相の日米首脳会談では、沖縄返還について日本の「潜在主権」を再確認し、旧安保改定は再検討に応ずるとの回答を得ます。

1959年秋にソ連フルシコフが訪米し、米・アイゼンハワー大統領との「雪解け平和外交」が実現すると、これを好機と捉える岸信介首相は、日米同盟へ一気呵成にまい進します。

旧安保条約の「内乱の鎮圧に米軍の力を借りる」「米国の同意なくして第三国に在日基地を与えない」という屈辱的条項を削除します。「日本の平和憲法での制約、戦力と海外派兵を許さない」の表現を「日本の独立」「日米対等」とします。新条約第5条に「日本は日本の領土にある米軍基地を防衛する」第6条に「米国は極東における国際の平和と安全の維持に寄与するため在日基地を使用できる」と定めて1960年1月岸首相は新安保条約・日米同盟に調印します。安保反対運動のなか6月18日新安保条約は自動成立し岸首相は辞職します。

岸首相を継いだ池田勇人首相が1964年11月肺がんで引退すると、佐藤栄作(岸信介の実弟)が首相に就任します。佐藤首相は1965年年明け早々、前年11月の大統領選挙で再任したRジョンソン大統領を訪問し沖縄返還を要求します。Rジョンソン大統領はJFケネディが暗殺された1963年11月に副大統領から大統領に昇任し、1964年11月最初の大統領選挙で圧勝します。1964年10月東京五輪開催中に中国が初の核実験に成功すると1965年1月日米首脳会談でRジョンソン大統領に、日米安保条約に基づく「核の傘」の確約を求めます。

1965年8月戦後初の首相訪問先の那覇空港で「沖縄の復帰が実現しない限り我が国の戦後は終わらない」と佐藤首相は声明し1967年衆議院答弁で「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を表明します。

1961年JFケネディ・池田首相首脳会談でも沖縄では「日の丸旗」掲揚に留まり、当時の

沖縄は米国の行政下の置かれる、「沖縄政府」でした。1960年代はベトナム戦争で東西冷戦が過熱し、沖縄はフィリピンとタイの米軍基地と並ぶ後方支援基地として重要度が増します。

米軍には沖縄人は本来日本人ではなく日本に恨みを持っている。沖縄人は米国の施政下に喜んでおり何の問題もない。と認識していました。しかし駐日米国大使ライシャワーが1961年に沖縄訪問した時、一目で沖縄は日本だと了解したといいます。大使は宣教師の父の下に日本に生まれ1927年(17歳)に帰国、1935年再来日し東京帝国大で学びます。1961年4月JFケネディの要請を受けて駐日大使に就任すると、日本生まれの米国大使は来日する米国政界関係者と日本の政財界をつなぎ、同盟国日本との重要性を説得します。

1968年米・大統領選挙で当選したRニクソンは外交補佐官にキッシンジャーを迎えます。ベトナム戦争の背後には中ソの対立があると見て、キッシンジャーにソ連との外交と中国との外交を進めます。1969年日米首脳会談でRニクソンは、1970年の安保条約自動延長と引換に佐藤首相に沖縄返還を約束します。しかしこの沖縄返還交渉には「緊急事態において在日米軍基地への核兵器の持込みを認める」「沖縄の軍用基地を返還する際、原状復帰にかかる費用は日本が負担する」の密約がありました。1971年米軍基地を維持したまま「核抜き・本土並み」の返還が決まり1972年5月15日日本へ復帰します。1972年9月29日田中角栄首相と周恩来による日中共同声明調印で日本と中華人民共和国との国交が成立します。

米国のベトナム撤退は1973年3月29日ですが、内乱が続き1975年4月にベトナム戦争は終結します。沖縄の米軍基地は共産圏からの東アジア圏防衛を継続し続けます。