【第479号】令和2年11月

 ≪  JFケネディ以降のベトナム戦争  ≫
1858年日米修好通商条約を結ぶころの米国南部は、黒人奴隷労働者に支えられる農業経済で綿花を欧州に輸出しており、
英国・綿工業との交易では自由貿易が望まれます。

一方北部では急激な工業化が進展し、新たな流動的労働力を必要とし奴隷制とは相容れません。
また欧州の工業製品以上の競争力を保つには保護貿易が望まれます。

1860年11月の大統領選挙では、奴隷制の拡大に反対する共和党エイブラハム・リンカーンが当選します。
1861年3月リンカーンが大統領に就任すると、不安を抱える南部は軍を組織して北部を攻撃する南北戦争が始まります。
リンカーン大統領は1864年に再選されますが1865年4月、観劇中に至近距離から銃で暗殺されます。
1865年5月北軍の勝利で南北戦争は終結し奴隷制は崩壊しますが人種差別は強化されて残ります。

百年後の1960年に発足する民主党JFケネディ政権は、副大統領に人種問題に関心の強い南部保守派のR(リンドン)ジョンソンを迎えます。
JFケネディ暗殺後に副大統領のRジョンソンが大統領に就任するとRジョンソン政権はケネディ政権の中枢人事を変えず、
1964年7月公民権法を制定して長年続いた人種差別に終わりを告げます。

東京五輪開催1964年10月の二カ月前の8月に、トンキン湾事件(北ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム軍が米駆逐艦に魚雷を発射する)が起ると、
米軍は本格的にベトナム戦争に介入し北爆が始まります。
Rジョンソン政権は11月の大統領選挙に得票率61%で圧勝、12月には公民権運動に尽力したキング牧師にノーベル平和賞が授与されます。
第一次Rジョンソン政権は1965年1月20日から始まりますが、JFケネディ政権から脱却してベトナム戦争は拡大し泥沼化します。

1960年ローマ五輪ライトヘビー級金メダルのカシアス・クレイは、プロに転向後イスラム教へ改宗します。
ムハメド・アリに改名し1964年(22歳)世界ヘビー級王座を獲得します。
1966年米国はベトナム戦争を本格化させ、徴兵義務を広げて多くの兵士を招集します。
アリは公然とベトナム戦争を非難しますが、戦争支持派の過半数はアリの発言は冒涜と非難します。
ムハメド・アリはイスラム教徒として徴兵を拒否しますが、アリ以外の有名人(歌手のエルビス・プレスリーら)は誰一人拒否する者は無く兵役に就きます。
アリは国民、政府、ボクシング界から嘲笑されますが、4年に渡り法廷で争います。
1967年徴兵拒否罪で有罪判決を受け、全盛期(25歳―27歳)のボクシング・キャリアが終わります。

アリは金持ちの息子は大学へ行き貧乏人の息子は戦争に行く、そんなシステムを政府が作ると斬捨てます。
アリの発言は公民権運動と同じく、階級差別と人種差別を非難するものでした。
1967年6月兵役拒否でアリが投獄されると、戦争支持のRジョンソン政権は27%へ低落します。
8月にはボクシング・キャリアを犠牲にして貫いたアリの信念を支持する層が広がり1968年3月民主党大統領予備選で
Rジョンソン大統領の得票率が五割を切ります。

故JFケネディの弟R(ロバート)・ケネディがベトナムからの撤退を主張して、
次期大統領選挙に出馬表明するとRジョンソン大統領は次期民主党候補から離脱します。
キング牧師がリンカーンの奴隷解放100周年(1963年)大集会を企画すると、20万人の大行進となります。
人種差別に否定的なRジョンソン大統領は、キング牧師ら公民権運動指導者と協議を重ね1964年7月公民権法に署名します。
リンカーン大統領の奴隷解放でも残った人種差別制度は撤廃され、1964年12月キング牧師にノーベル平和賞が授与されます。

1967年大規模黒人暴動が起るとキング牧師は、ベトナム戦争で多数黒人が徴兵され最前線で戦い、
民主主義の恩恵を受けない黒人が民主主義を守るために戦うと訴えます。
RケネディはJFケネディ政権の司法長官(法執行者で最高の地位)で、在任中のビックス湾事件やキューバ危機に
際して兄と共に最悪の事態の回避に尽力しました。
人権問題にも積極的に関与し、黒人学生の入学拒否に際しては州知事に妨害しないよう直訴します。

1968年4月公民権運動の指導者・キング牧師が暗殺されると、Rケネディ(42歳)は葬列に参加し6月の民主党予備選で勝利します。
Rケネディは次期大統領選の民主党候補になりますが、五日後サンフランシスコのホテルでパレスチナ系米国人に銃撃暗殺されます。

1960年の大統領選挙でJFケネディに敗れた共和党Rニクソンが、1968年の大統領選挙に再び登場します。
民主党の予備選挙ではベトナム反戦運動の激化で現職Rジョンソン大統領は出馬断念、
Rケネディも暗殺され、共和党のRニクソンへ追い風となります。

Rニクソン候補は民主党JFケネディとRジョンソンのベトナム戦争からの撤退を訴え、1969年1月20日 第37代共和党で大統領に就任します。
米軍は核兵器以外のあらゆる最新化学兵器を使用するも、ベトナム民族の抵抗は強くベトミンと南ベトナム解放民族戦線を打ち破ることができません。
ベトナム戦争への巨額軍事費支出により1971年米国の貿易収支は八十数年来の赤字となります。
戦費拡大はドル不安となり金・保有量は1949年の半分以下、金準備不足は米国経済の大問題となります。
1971年8月Rニクソン大統領は金・ドル交換停止を宣言し、金に対してドル8%切り下げは米国の国際競争力を改善する狙いがありましたが、
ドルショック(ニクソンショック)とよばれます。

Rニクソンはベトナム戦争の解決策は、ハノイでなく中国とソ連にあると見て大統領補佐官にキッシンジャーを迎えます。
1971年キッシンジャーは極秘で共産国・中国を訪問、米中和解の道筋をつけ、1972年にRニクソン大統領の訪中で米中国交実現に合意します。

またソ連とも緊張緩和政策を推進し、米中と米ソの均衡を図りながらベトナム戦争終結の条件を整えます。
1973年1月ベトナム和平・パリ協定で、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)と
南ベトナム共和国臨時革命政府(ベトコン)と米国の間で、ベトナム戦争の和平協定が成立すると、
米国は徴兵制を廃止されます。(現在は志願兵制)

Rニクソン大統領は3月29日までにベトナムから米軍を撤退。
その後北ベトナムと南ベトナムとベトコンとの間に内乱が続きますが1975年4月30日北ベトナムにより南ベトナムの首都サイゴンは
陥落接収されてベトナム戦争は終結します。

1976年4月南北統一選挙が行われ、7月南北ベトナムの再統一とベトナム社会主義共和国の樹立(北ベトナムによる南ベトナムの吸収)を宣言します。
北ベトナムのハノイから南へ1600㎞にある旧サイゴン市周辺地域は、北ベトナムを統合した指導者にちなみ「ホー・チ・ミン市」となります。