【第456号】平成30年12月

≪  明治天皇とグラント将軍  ≫

1858年孝明天皇の勅許(許可)を得ず、十四代将軍・家茂の署名により日米修好条約を結ぶ大老・井伊直弼は、1860年攘夷派により桜田門外で暗殺されます。

この頃の米国南部と北部の経済は、南部では黒人奴隷の労働力による綿花を欧米に輸出する農園所有者が支配する自由貿易です。一方北部では米英戦争で英国工業製品が途絶えて急激な工業化が進展して流動的に労働力不足となり、欧州製工業製品より優位に保つ保護貿易が求められます。その結果奴隷制度と貿易の両方で意見を異にします。1860年11月の大統領選挙で奴隷制の拡大に反対する共和党・リンカ-ンが当選すると、南部の各州が合衆国からの脱退を宣言します。翌年3月リンカ-ンが大統領に就任すると南北戦争が開戦となります。1863年リンカーンが奴隷解放宣言を発し1864年3月にグラントが北軍総司令官に就任します。グラントはそれまでの将軍とは違い敗戦しても引揚げず、留まり戦い続けることで連戦連勝します。1865年の議会で黒人奴隷制の廃止が確定し4月9日北米軍が勝利すると、4月14日リンカーン大統領は暗殺されます。

1869年(明治2)グラントは18代米国大統領に就任。蝦夷地の開拓次官に任命される黒田清隆は明治2年渡米し、グラント大統領に開拓の篤い思いを直談判します。大統領に農務長官ケプロンを紹介され、ケプロンは黒田に共感し適任者を探しますが見つかりません。

67歳のケプロンは自ら現役農務長官を辞して北海道開拓に関わり、コメの出来にくい北海道で小麦を作り、パンと牛乳の食事を奨励し酪農を定着させます。

明治5年2月岩倉使節団は明治天皇の国書を持参して、日米修好条約の関税自主権を回復し平等な条約に改定しようとホワイトハウスのグラント大統領を訪問します。大統領は日本の条約改正の希望に友好的な考えを表明しますが、使節団は多国間に渡る交渉の困難さを知り諦めます。このご大統領就任二期目の明治9年に吉田・エヴァーツ条約と呼ばれる税権を回復した改税条約に調印します。グラント大統領は明治10年に退任すると英国経由で二年間の世界旅行にでかけます。 清国から長崎に上陸し明治12年7月3日から9月3日まで国賓として浜離宮に滞在し、皇居には7月4日に参内します。

明治10年2月西南戦争が始まると、維新の三傑・木戸孝允(43歳)は「いい加減にせんか」といって5月に病死、西郷隆盛(49歳)は9月に自刃し、翌年5月大久保利通(47歳)は暗殺されます。亡き大久保の後を継いで政治の中心になるのは伊藤博文(36歳)で、明治12年3月に琉球藩を廃止、沖縄県を設置します。

明治天皇(28歳)はグラント元大統領(58歳)と芝・浜離宮で会見し、7月4日の米国独立記念日にお迎えできたお喜びと、岩倉使節団訪米の際の数々の御好意に深く感銘しておりますと御礼を述べます。明治天皇は私的な面会を求め8月10日に再び浜離宮で会談が行われます。天皇は自由民権運動家達が求める国会開催と憲法制定、清国との琉球問題について本当のことが知りたいと切り出します。

グラント元大統領は、政府はそれが人民の代表であれば一番強固でその国民は繁栄します。君主国においても同じことで議会をもつ国が最も強大で、日本も立憲制とすることが一番有効です。しかし何時、どんな形で実現するか慎重な考慮を要します。この種の参政権や代議権は一度与えた以上二度と取り上げることはできません。そこで与えるにしても時間をかけてじっくり行うことが肝心です。もし代議士が国民から選ばれたとしても、いきなり議会に立法権をもたせるのではなく、当面はあらゆる問題を東京に集めた代議士達と諸大臣が共に協議を尽くす方法がよいかとおもいます。この方法に習熟し同時に教育が進歩することで期待通りになるでしょう。と伝えさらに政府は絶対に外国からお金を借りてはいけません。自主性を失い債権国の餌食になります。と忠告します。

琉球問題について、琉球は何世代にわたり中国の従属国であり、先王・尚育の死に伴い1866年清国は王子・尚泰王を琉球国中山王に任命し清国の属国であると主張します。薩摩藩に支配されていた琉球は、中国と日本の両方の国に属する政策をとっております。明治4年7月廃藩置県が実行されると琉球を清国から切離すべきと考える明治政府は、同年7月日本と清の間で日清修好条規(両国は互いの邦土への侵越を控える)を結びます。明治5年9月明治政府は琉球国王・尚泰を琉球藩主に任命し尚泰に入朝を促します。さらに明治8年琉球藩に清国との関係を一切廃止するよう通達しますが受入れられません。明治12年3月武力を背景に琉球藩を廃止して沖縄県を置き、3月31日に首里城を明け渡して日本国に合併しますが清国は納得しません。清の李鴻章は来訪中のグラント元大統領に琉球問題の調停を依頼します。7月清国を経由して来日するグラントは明治政府に対して、近年の日本の発展は軍備や陸海軍の整備が進み清国は日本の敵ではない。琉球問題がこじれ日本と清の間に戦争がおこれば欧州列強の思う壺となる、と問題の平和的解決を勧告します。これを受けて明治政府は清国との外交的折衝を開始します。明治13年日清両国は沖縄に関する交渉に入るとグラントは調停に関わり、宮古・八重山諸島は清へ譲り日清修好条規を改定し日本にも欧米と同じ特権を認める。と提案します。グラント元大統領は、日中両国は多少の犠牲は覚悟して間にわだかまる難問題を解決して友邦となり同盟を結び、日中間に絶対欧州諸国の介入をさせてはなりません。なぜなら日本と中国は東洋において独立を保っている最期の二国であり、同時に欧州の支配を排除して巨大な国になる可能性をもちます。

清・李鴻章は宮古・八重山諸島は清へ、奄美諸島は日本へ、沖縄は独立と主張するグラント案を廃棄します。伊藤博文ら政府高官案は、中国国内で欧米並みに日本の商権を認める代わりに宮古・八重山諸島を中国へ引き渡すもので、交渉は難航しますが清国はやむを得ず同意し明治14年2月石垣島で引き渡すことになります。しかしいざ調印となると琉球の分裂反対論にあい正式調印には至りません。その後、日本の朝鮮進出によって日清間の対立は激化し1894年日清戦争が勃発します。この戦争で日本が勝利し下関で講和条約が結ばれ台湾が日本の植民地になったことで琉球問題は曖昧なまま日本に属することになります。

しかし露・独・仏の三国はこの講和条約の朝鮮の独立は有名無実とする、とクレームをつけグラントの危惧していた通り欧州列強国がアジアに介入してきます。