【第449号】平成30年5月

≪  佐藤栄作 (明治34年-昭和50年) の 時代  ≫

山口県田布施村の酒造業・佐藤秀助の長男一郎は海軍中将、二男信介は岸家の養子に入り娘・洋子は安倍晋太郎に嫁ぎ孫の安倍信三は現総理です。

三男栄作は本家筋の佐藤松介の養子となり、松介は第二次近衛内閣の外務大臣・松岡洋右の義弟で栄作には義伯父となります。吉田茂は遠縁にあり幼い頃から親交があります。

佐藤栄作は大正13年東京帝大法学部を卒業し鉄道省に入省、配属は出身地に近い門司鉄道局・門司駅で助役となり大正15年松介の長女・寛子と結婚します。昭和11年鉄道省監督局業務課勤務、昭和15年監督局総務課長となると9月に伯父・松岡洋右は日独伊三国同盟に調印します。日米開戦後の昭和16年12月佐藤は鉄道省監督局長に抜擢さます。

戦後の昭和21年鉄道省の労働争議が激化すると佐藤は労組との争いを鎮めて吉田茂に認められ、昭和22年吉田茂内閣で鉄道省の佐藤は運輸事務次官に就任します。4月社会党・片山哲内閣でも佐藤は運輸次官を継続します。昭和23年3月社会党・芦田均内閣は佐藤運輸次官に慰留を勧めますが、佐藤は辞表を出し依願免官となり24年間の鉄道生活を終えます。

昭和23年3月吉田・日本自由党と幣原派は合併し民主自由党となり芦田内閣が総辞職すると10月佐藤は第二次吉田茂内閣の内閣官房長官に就任します。

昭和23年12月23日皇太子明仁親王15歳の誕生日に、GHQは東条英機らA級戦犯7人の絞首刑執行し翌24日A級戦犯容疑者であった岸信介らは釈放されます。

昭和24年の衆議院選挙で吉田民主自民党の山口二区で佐藤はトップ当選し、民主自由党は絶対過半数となります。佐藤は政務調査会長に就任し、昭和24年6月鉄道省をGHQの推進する公共企業体「日本国有鉄道」を創設しますが、佐藤は「鉄道は民営に向かない」と主張しております。

吉田首相は昭和27年4月サンフランシスコ条約と日米安全保障条約を同時に発効します。

10月佐藤は建設相に就任すると道路の維持修理のためのガソリン税を導入します。昭和28年総選挙で山口二区から兄・岸信介と佐藤栄作が兄弟当選となります。岸は吉田に反旗を翻して鳩山一郎と日本民主党を創立、吉田内閣は総辞職して昭和29年次期首相が鳩山となると、昭和31年鳩山はモスクワで日ソ共同宣言に署名します。鳩山は日ソ国交回復を花道に引退し12月次期首相は自由党・石橋湛山になります。昭和32年病気で石橋は辞任し岸内閣が発足、昭和33年第二次岸内閣が発足すると佐藤は蔵相に抜擢されます。佐藤蔵相は10月インドでの国債通貨基金会議の帰路に台湾海峡危機を抱える沖縄に初めて立寄ります。

岸首相は昭和35年1月米ワシントンで新・安保条約に調印し、5月19日衆議院で新条約採決を強行します。参議院の議決がなくとも、自然承認される三十日後の6月19日が近づくと国会に全学連やデモ隊が取り囲みます。犠牲者一人がでて6月23日に日米安保新条約の批准書を交換して岸は辞任を表明します。7月の自民党大会で佐藤は出馬せず池田勇人内閣が発足し、昭和36年第二次池田内閣で佐藤は通産相として入閣します。

池田の所得倍増政策で輸入が増大し貿易収支が赤字になると、佐藤通産相は貿易依存率が高い米国への輸出振興を図り、昭和37年には輸出超過(貿易収支黒字)とします。

昭和39年10月の東京五輪閉幕後に池田首相は病気で退陣、11月佐藤栄作に総裁の座を禅譲します。佐藤首相はオリンピック後の昭和40年不況を脱出する為、戦後初の赤字国債を発行する積極財政により不況を克服し、昭和40年11月から昭和45年7月までの57カ月は「いざなぎ景気」と呼ばれる高度成長期を迎えます。

昭和40年1月佐藤首相は初外遊の米国でジョンソン大統領と会談し沖縄と小笠原諸島の返還を求めます。大統領は極東の安全を守るため南ベトナム、台湾、朝鮮38度線を防衛すると明言し会談後に北ベトナムへの爆撃を始めます。

経済復興を急ぐ韓国・朴正煕大統領と、ソウルで日韓基本条約に仮調印し6月正式調印します。戦前の植民地支配に対する韓国の請求権は無償3億㌦、長期借款2億㌦、民間信用供与1億㌦以上で合意し昭和40年12月日韓国交正常化が実現します。

昭和41年には高度成長時代となり急速なジェット化による大量輸送の時代を迎え、昭和45年頃には羽田空港が限界になると見込み新東京国際空港地を成田に閣議決定しますが、事前説明が不十分で地主と過激派の反対運動が長引き開港は昭和53年になります。

昭和42年2月ニューズウィーク誌で佐藤は「核なら韓国内に置いたら良いだろう、朝鮮半島有事の時には米軍は日本本土の基地を使えば良いのだ。その結果日本が戦争に巻込まれても仕方がない。朝鮮半島で米軍が出なければならないような事件が起った場合、日本がそれに巻込まれるのは当然だ。」と論じております。

昭和42年11月ジョンソン大統領との日米共同声明で、小笠原諸島の1年以内の返還と沖縄返還三年以内の合意を発表し、昭和43年6月小笠原諸島は本土復帰します。沖縄米軍基地には核兵器が配備されており返還の争点となります。昭和42年12月佐藤は「核は保有しない、製造しない、持ち込まない。」の三原則を強調します。昭和43年1月米・原子力空母が佐世保に入港すると、反核運動派とベトナム戦争反戦派らのデモ騒動が起ります。

昭和46年1月米国はニクソン大統領が就任し11月ニクソン・佐藤会談の共同声明で、核抜き・本土並の、昭和47年沖縄復帰が合意されます。佐藤首相は日本が米国の「核の傘」に入っている以上、核の再編入を拒むことは出来ないとして、外務省や秘書官にも告げず「有事の核持ち込みを認める」「核密約」を結びます。昭和47年1月ニクソン大統領と会談し沖縄返還は5月15日と決定し、7月に佐藤内閣は総辞職し自民党 党大会で田中角栄を次期総裁に選出します。

田中首相は9月に中国を訪問し日中国交を樹立します。昭和47年2月ニクソン大統領は中国訪問し毛沢東主席や周恩来総理と会談し、第二次大戦以来の冷戦から和解への転機となります。昭和48年ニクソン大統領はベトナムの和平協定に調印し戦争は終結します。

民主党政権の2009年、自民党佐藤信二氏は佐藤家に保存されていた「秘密合意議事録」を公表します。佐藤栄作の没後に遺族は、「核密約書」を外務省史料館で保管して欲しいと要望しておりますが、外務省は公文書ではなく佐藤の私文書に当たると拒否しておりました